ユナタン

週刊メッセージ“ユナタン”18

2016年7月5日 火曜日

ユナタン:18≫ at はっとこども園

~ 「2つの時計」と「遊び心」 ~

平成28年6月18日  片山喜章(理事長)

幼児の保育室には時計が2つ、並んでいます。(ひとつは電池がはいっていません)

どんな意図で、時計が2つも並んでいるのか、その“仕掛け”をご存知ですか?

「子どもの主体性を育む」ことは、保育・教育の基本的な「目標」です。けれども、言うのは簡単です。私たち現場の保育者は「目標」を言葉で唱えることができても、いざ、「実践する」となると、絶えず、思案します。保育者の創意やアイデア勝負になるからです。実際、先生に強いられた活動でも、それを受けとめる子どもが活き活きしていれば、素直で、「主体的」に活動しているような気になってしまうことがあります。逆に、言われたとおりに片付けをしないで、好き勝手に活き活きと遊んでいたら、どうでしょう? 活き活きしているから「主体的」ですか? ルールを守らないのだから「主体性」とは言えないでしょうか? こんな事が現場でよく話題になります。

こんなふうに“言葉の意味”を詮索しだすと、もう、ワケワカメな状態になってしまって、結局、「主体性」について考えるのが邪魔くさくなってしまいます。「2つの時計」は、主体的に行動するための「1つのアイデア」として、園生活にかなりしっかり根付きだした「保育の方法」です。

いま、はっとこども園では、一定の時間、コーナー・ゾーンの保育が展開されています。

6月になったある日の「積木コーナー」での出来事でした。そら組4歳児A君とB君の2人が「積み木」を並べて遊んでいました。かなり集中していたようです。その横で、にじ組3歳児C君も同様に遊んでいました。そして“お片付けの時間”に気がついたのはC君でした。

では、C君が、なぜ“お片付け”の時間を知ったのでしょう……。そこに「2つの時計」という“仕掛け”があります。1つは、ふつうの時計です。実際の時刻を示しています。もう1つは、電池をはずした“合図の時計”です。保育者が自在に針を動かして、時刻を表示することができます。

その日の“お片付けの時間”を保育者は“合図の時計”を使って9時30分に合わせました。

それが、保育者が決めた“お片付け”をする時刻です。3歳児のC君は、「2つの時計」の針が同じ状態(どちらも9時30分)になったのを確認したので、「遊びたい自分の気持ち」を切り替えて“お片付け”を始めたのでした。C君のこの「自制心」「時計を見て判断する力」は、本来の子どもらしくない姿かもしれませんが、「主体的な行動」だと私たちは考えるのです(賛否は別)。

その流れの中で、C君は、隣に居た年上のA君、B君が作っていた積み木も片付け始めたのです。「積木コーナー」は“片付けの時間”になると全て片付けるルールは、誰もが理解しています。

すると、それまで機嫌よく遊んでいたA君とB君は声を荒げて「やめろや~!何すんねん…」と言ってC君に、飛びかかりそうになったのでした……(アッ、ケンカになる)

けれども、C君はさほど気にもせず、黙々と積木を片付け続け、とうとうすべての積み木を片付けきって、「サークルタイム」に行こうとしました。A君もB君も一層、カッとなって、C君の腕を掴んで「“なかよしベンチ※”で、話しようや!」と言ってC君を連れて行こうとしました。

  • もめ事が起きたら、大人に頼らず、その場所に行って、自分たちだけで話し合って、解決しようとする園文化です。これも(言い合える)「関係性」を豊かにし、「主体性」を促すと考えています。

 

3歳児のC君は、彼なりに不条理に感じたようです。すぐに「積木コーナー」の近くに居た保育者のところへ行って、「先生、助ケテ。。ボク、まちがってないのに…」「“お片付けの時間”にナッタカラ、かたづけたダケ、やのに…」と訴えました。一部始終、事の経緯を見守っていた保育者は「そうね、C君の言ってること、正しいと思うよ。A君、B君に、そのこと、ちゃんと、お話ししてあげたらどうかな?」「センセイ、ここで、ずっと見てあげるからね」と言葉を差し伸べました。

3歳児のC君は、まだ怒っている4歳児の2人に対して「だって…“お片付けの時間”やもん。“トケイ”見たら、片付けする時間やったモン」とリキを入れてしっかり言いました。その言葉に2人は一瞬“チ~ン”。互いに顔を見合わせて、そのまま、そろ~と「2つの時計」の方を眺めて…(苦笑!)。「あっ、ほんまやな~……ゴメン」と照れくさそうに笑ってC君に応えました。

現在の時刻と“お片付けの時間”を表示した「2つの時計」。「時計という存在」が今を知らせ、そして片付けを促す“仕掛け”になっていることを子どもたちは承知しています。今回は、3歳児のC君が気づき、4歳児が気づかされるというエピソードでした。『3歳児なのにスゴイ!』と感じる方がいるかもしれません。しかし、私個人は、C君の性格や人柄によるところが大きいと思いますが、それより3歳児ならではの“幼さ”と“好奇心”によるのではないかと考えました。

C君にとって、「2つの時計の意味」を“会得した喜び”を表現することが「積み木で遊び続けること」にまさったのだ。そんなふうに考えました。もちろん、4歳児のA君、B君も年下のC君から「正論」を言われたわけですから、「しゃ~ないな」と諦めがついたのかもしれません。

そこに居た保育者は、4歳児のA君、B君がC君の言葉を素直に受け入れて「気持ちいいくらいの潔さを感じた」さらに「この“2つの時計”の存在(仕掛け)が、子どもたちの生活の中に、根付いていることが実感できた出来事だった」と私に感想を述べました。評価に値する教育です。

むかし、私は、この“仕掛け”を主体的な「保育の方法」として提案しました。なので、異論はありません。しかし最近、メッキリ年老いたせいか、“片付けの時間”をわざと無視して、遊びに没頭する子どもの姿を密かに期待したりなんかしています・・・(きゃ~、先生たちに怒られる!)。

私の中に「2つの尺度」が在って、今、両方とも動いているのです。 【話題提供:福田侑真】

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ユナタン:18≫  at なかはらこども園

~ 2つのコーナーから、きこえてきたもの ~

平成28年6月20日  片山喜章(理事長)

前回、≪ユナタン:17≫で紹介した「コーナー・ゾーン」による活動を午前中いっぱい続ける「フリーデー」が、6月1日にありました。その日、法人の関西各園から見学者を招いて、観察し合い、評価し合う“ライジン”と称する「研究会」も合わせて行われました。日頃、物静かな園長と2人の主任もこの日は、何としても良いところをみせたい!という思いが強くはたらいて、何日も前から、熱意と創意の限りを尽くして、この日に向けて、職員集団にハッパをかけていました。

その中で、ユニークで、興味深かったのは、H先生が担当した遊戯室を使った《科学ゾーン》とY先生が担当した2階の東端の部屋を使った《楽器エリア》でした。2人とも男性保育者です。

《科学ゾーン》:遊戯室には、5歳児ぞう組の子どもたちが7~8人集まりました。さらに3歳児ばんび組の子どもも加わりました。この日のテーマは「糸電話」の研究でした。“受話器”にあたる部分を“紙コップ”“プラスチックコップ”、“電話線”は“タコ糸”“麻ヒモ”“タフロープ”を、それぞれ準備して、どの組み合わせが「電話」として機能するか実験します。実験希望者が想定外に多く、担当者は大慌てでした。子どもたちは、組み合わせの異なる何種類も「糸電話」をつくりました。ここに時間が費やされましたが、多様な「糸電話づくり」もまたおもしろかったです。

『ヒモ(電話線)の長さは、どれくらい?』と、ヒモの長さを様々に変えてみて、ヒモの長さと音量は関係するのか、疑問を抱いて試す子。『紙コップどうしをくっつけるだけでも相手の声が聞こえるよ。これ紙(論文?)に書いておいて』と“発見”を誇らしげに訴える子。「糸電話」が次々に完成したので「実験」は、遊戯室と上の園庭にわかれて行なわれました。

「紙コップ」と「タコ糸」が正解だとすぐに理解した子どもたちは、H先生と一人ひとり順番に会話しました。『うわぁ~! めちゃ聞こえる』と糸がピンと張っていると声がはっきり聞こえることを体感した子どもたちは大感激です。最初、地声を張り上げて、それで『聞こえる』と騒いでいる子どもも多くいましたが、この《真実》にふれると、少し真顔になって、にわかに信じがたい、という表情に変わっていったのが、とても印象的でした。少し離れたところに居るH先生の“声”が、耳元で、まともに聞こえるのですから、まさに驚きの体験です。

音は、音量、音質ともに振動として鼓膜に伝わります。ピンと張ったタコ糸には音を伝える力がある事を体で学び取ったひとときでした。次は、「電話線」をどんどん伸ばしたり、電話機を大きくしたり、線のない携帯電話で、なぜ会話ができるのか、先生たちもそれくらい探求してほしいと思います。「探求への旅」は「自分自身を知る旅」でもありますから…。【話題提供:橋元次郎】

≪楽器エリア≫:大勢の子どもが群れ集う多彩なコーナーの一角に、騒がしい音がする“楽器コーナー”を設定するのは、いかがなものか、と懸念していました。しかし、何回か経験している実績があり、また楽器で音を出せるコーナーは“エリア”として、2階の一番東端の部屋で、他のコーナーと仕切られていたので、他園ではみられないコーナーになるのかなと興味を抱きました。

10時ジャスト、他のコーナー・ゾーンから少し遅れてオープンした楽器エリアには、保育者がついています。担当は、なかはらでも屈指のピアニスト、男性のY先生です。

始まる前、2人の子どもがプレイルームを往来し、“呼び込み”を行なっていました。楽器をたたくだけなら、1人でできますが、リズムは、何人かと“合わせ打ち”してはじめて“おもしろい”と感じられる特徴があります。なので、仲間を集めに行ったのだと思います。

集まった子どもは、5歳児ぞう組と3歳児ばんび組の子が多く、計12人くらいの子が、好きな楽器を使って自由にリズムを打ちはじめていました。楽器は、カスタ、スズ、タンバリン、ウッドブロック、トライアングル、そして木琴です。リズムだけを打ち続けるには、強い表現欲求や決められた形が必要です。でなければ長続きしません。メロディーを奏でる打楽器である木琴が設定されてあるのは、奇妙な感じがしましたが、今後、発展する可能性を秘めているとも感じました。

と、そこにY先生が、ピアノの前にすわって、にこやかに、しなやかに弾きはじめました。

「おもちゃのチャチャチャ🎶」「♪手をたたきましょ」他、メロディーに合わせて、その子なりにリズムを意識して楽器を打ちます。四分(音符)打ちを続ける子、メロディーに合わせて四分と八分を使い分ける子、三連符を巧みに打つ子、様々ですが、クラス(年齢)によって、打ち方がだいたい同じでした。3歳児は、カスタやタンバリンを打つとき、多くの場合、足も動いて歩きながら打っていました。まさに、これが「3歳児の特徴」と「研究」できたように感じました。

一斉クラス活動として、緊張感を持たせる器楽活動と違って、自分が選んだコーナー活動であること、そして1曲終わるごとに楽器を交換する自主ルールを設けたので、楽器を取り合うトラブルは起こりませんでした。このエリアには、台が1列に並べられており、その上に立って器楽合奏をするシツラエになっていました。が、子どもたちは回を重ねると、お互いに向き合うように立ち位置を工夫したり、Y先生も木琴の位置を外向きから内向きに変えたりしました。

3曲終わると、また自由打ちの時間になります。およそ10分間隔で、ピアノ演奏が行なわれ

ますが、次の開始時間は、部屋に備え付けの時計に表示されます。

そして驚いたのは、その時間になると、演奏を聴きに来るお客さんが、他のコーナーからやって来たことです。まるで演奏会を聴きに来た感じです。絵画は完成品のある空間に“楽しみ”が存在します。音楽は、演奏する事、演奏を聴かせる事、演奏に聴き入る事、つまり音が、空気中を踊り出す時間の流れに“楽しみ”が存在する、今更ながら、そう感じました。 【話題提供:横田太郎】

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ユナタン:18≫ at ななこども園

~ “いろんな想い”を乗せたり、降ろしたり ~

平成28年6月23日  片山喜章(理事長)

今年度にはいって、週1回、「コーナー・ゾーン」で活動する“フリーデイ”が定着しています。子どもたちは回数を重ねるたびに“ただ気の向くまま遊んでいる状態”から、自分のしたいことを自分のなかではっきりさせて、時には、クラスを越えた仲間とともに“目的を持って遊び込む状態”に変わりつつあります。保育者集団もまた、今まで大切にしてきた“ななの保育”に、この新しいタイプの保育を通して、子どもの見方を広げ、子どもたちのさらなる成長を願っています。

6月1日のフリーデイのことです。3歳児ゆり組のX君は、コーナーがオープンすると、真っ先に“積み木コーナー”に向かいました。そこには木製の玩具、「電車」と「線路」もあります。

4月、フリーデイ開始当初の積み木コーナーは、5歳児ばら組の子どもが多く、「電車」と「線路」を積み木と合体させて「駅ビル」や「車庫」を工夫しながら作っていました。その姿に影響されたのか、最近は、どちらかというと、3歳児ゆり組の子どもの比率が高くなってきました。

さっそく、X君は「電車」をつなげました。あっという間に6両連結になりました。しかし、それを「線路」の上に乗せないで、フロアーに置いて、自分の体を中心にその周りを蛇行運転させたり、ビュワーンとまっすぐ長い距離を走らせたり、ひとりで遊んでいました。

この遊びは「電車」が通る「線路」を作る面白さもあります。右カーブに左カーブに直線、多彩な「線路の部品」をあれこれ組み合わせて軌道をつくっていく。やがて、出発駅も終着駅もない、その日限りのアートな環状線になる。その制作過程もまたこの遊びの面白味の1つです。

自分(たち)が“いきいき気分”で組み合わせた「線路」が基底になって、その上を“わくわく気分”を乗せた「電車」たちが、なぞっていく。GO&STOPをくりかえしたり、スピード調整を楽しんだり、その“操作”がたまらなく面白い。けれども、X君は「線路」という軌道の制約を望まなかったのか、あるいは、他の子どもとの接触を避けたのか、しばらくの間、「線路」から離れたところで自由に“運転”していました。けれども、その一方で、同じ3歳児クラスのA君たちが、どんどん線路をつなげて、拡げて、面白そうに遊んでいる様子も、気にかかります。

「う~ん、どうしよう?~」、「電車」を手にしたX君の表情には“戸惑い”が、停車中。

X君、意を決して、チャレンジ! 手持ちの6両連結の「電車」を「線路」に乗せました。その「線路」で10台の「連結電車」を走らせていたA君と目が合います。一瞬の間、お互いに見つめ合って力を競い合う、まさに“トーマス物語”。「やっぱり、無理」と、X君は、自分の「電車」を「線路」から下ろして、抱えるように持ち運び、また床の上で「電車」を運転しだしたのです。

しばらくすると、『やっぱり、「線路」で走らせたい』、そんな想いが乗っかったのか、X君は、また別の場所から、そ~っと、「電車」を「線路」に乗せて…運転再開です。そこには、やはり同じクラスのB君がいました。B君は、「電車」を走らせるより「線路」をつくるのに興味があるようです。長い時間、ず~っと「線路」づくりに没頭していました。どんどん伸びる“パズル”をはめ込むような面白さに浸っている感じです。X君が、自分がつくった「線路」の上で「電車」を走らせてくれることに、B君は大歓迎。嬉しそうな表情で「線路」づくりに励んでいました。まるで、自分が作ったお料理を友達が、美味しそうに食べてくれる、そんな嬉しさを感じているようでした。

X君の「電車」の「旅」は、さらに続きます。

今度はそこへ、また別のC君の「電車」が接近してきました。X君の「電車」と衝突しそうになりました。2台の「電車」は停止します。特に、言い争うこともないままX君は、C君に譲るかたちで、また自分の「電車」を床に下ろして、別の場所へ移動させました。それからX君は思いついたように、時々、自分の「電車」を「線路」の上に乗せて遊びます。けれども友達の「電車」と出会うたびに「線路」から取り出して、衝突を避けるのです。X君は、この“動作”を何度か繰り返していました。果たして、この“動作”には、どんな“心情”が潜んでいるのでしょう?

これは誰にも、本人にさえもわからない深層心理の仕業です。『敷かれたレールの上を走る人生なんて…』と、冒険ができず、無難に暮らす生き方の例えとして、表現することがあります。

『敷かれたレールが単線ならば、道中、必ず衝突が起きる! X君は、実際、衝突を嫌って避けました。彼は、やさしい子? 賢い子? 押しの足りないひ弱な子? 敷かれたレールの上で走ることに惹かれながらも、こだわらないで、冒険に出ようと試みた!』 そんな風にも見えました。

X君の「電車」の「旅」も、いよいよ終盤です。

同じクラスのD子ちゃんが、別のコーナーから、物珍しさに牽引されてやって来ました。D子ちゃんは「線路」や「電車」で遊んでいる友達の様子をじっと眺めます。そんなC子ちゃんに気付いたX君は、何も言わず、唐突、自分の「連結電車」をすべてD子ちゃんに手渡してしまいました。D子ちゃんは、「なんでくれたんだろう」と不思議な表情をしたまま立ち尽くします。

手渡された「電車」を持つD子ちゃんと、X君の間に、奇妙な空気が流れます。

(D子ちゃんだから、貸してあげる)(きっと面白いよ)(ぼくなら、もう、いいよ)(もう、飽きた)、X君の気持ちを推し量るのは、困難です。ただ、D子ちゃんに「電車」をあげたX君は、笑顔がいっぱいで、得意気な表情でした。 (D子ちゃんのこと、お気に入りなのかなあ~♡)

そしてX君は、スキップなんかして、別のコーナーにお出かけしてしまいました。X君は、もうこの時、自分自身が「電車」になって、自分でつくった心の中の「線路」を走っていたのでしょう。

きっと、「快速電車」になったつもりで……。    【観察&話題提供:園長 徳畑 等】

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ユナタン:18≫ at 池田すみれ

~ ふとした きっかけから ~

平成28年6月22日 片山喜章(理事長)

0歳児ふじ組には、現在8名の子どもがいます(7月に2名入園します)。園全体の規模からすれば、人数は少なく、その割に保育室は、広すぎるほどひろい、といってよいと思います。

「ひとりひとりの発達を見極めて!!」「個々のその時々の状態を把握して!!」「無理せず生活習慣の自立を促します!!」等々、それぞれの保育者は、その子その子に適した保育・教育の在り方を探りながら、日々の実践に挑みます!!!(ふっ~)……

と、心がけますが、常にそんな精神状態で子どもと向き合っていると、長時間、園生活している子どもたちも保育者集団も息が詰まり、疲れてしまいます。息抜きも大事です。

と、いうよりも息抜きしながら《押さえどころ》はおさえて、後は、お世話をしたり、共に遊んだり、子どもどうしがふれあい(学びの源泉)、子どもも保育者もリラックスし、くつろげる風土をつくることが何より大切で、このクラスには、それが一層強く、求められていると思います。

そんなある日の事です。まだ歩行が確立していないAくんに、担任は、食後のエプロンとタオルを渡して「ないないしてきてね」と伝えました。いつもなら歩行が確立していないので、Aくんのエプロンとタオルは、担任が片付けていました。

その後、時間にして、1分もたたない頃です。何気なくAくんが居た場所に目をやると、そこにはAくんの姿はありませんでした。(なんと)Aくんは、自分のエプロンとタオルを「汚れ物ケース」に入れようと移動していました。そこまで、ハイハイして行ったのです。しかも、担任の顔を見て、微笑んで、まるで“どうや、たいしたもんやろー!”と言わんばかりに見えました。

担任の頭の中で、いろんな考えが駆けめぐります。「自分で汚れ物を片付けに行くのは、歩けるようになってからで良い」という考え方だったのですが、“自分で行くように”促してみるとAくんは、まだ、十分、歩行が確立していなくても、自分のエプロンとタオルを「汚れ物ケース」に自分で持って行って入れたのでした。

と、いうことは、今まで“してあげる”だけの(0歳児)保育は、必ずしも、Aくんにとって、良くなかったのかもしれない…。今回、ほんの一瞬の出来事から、保育(特に乳児保育)の根本を考える大きな“きっかけ”になりました。こんなふうに考える姿勢も《押さえどころ》と捉えます。

それに気づいてからは、担任たちは、Aくんに「自分で行って来て~」と言葉をかけます。

大人ならついついメンドクサイ事も、0歳児(満1歳のお誕生日は迎えています)の子どもでも、自分でできることは“自分でやりたがる”のです。この子どもの気持ち(欲求や願い)に応えてあげることは、とても大切な保育の《押さえどころ》です。

数日後、「汚れ物」を片付けに行こうとするAくんは、とうとう、自分一人で立ち上がり、「汚れ物ケース」に向かって、遂に、第1歩が出たのでした。拍手喝采の瞬間でした。自分でしたいこと=「目的」に向かう気持ちは歩行する力をも促すのだと子どもから学んだ担任たちでした。

“たまたま”の出来事はこの後にも、起こりました。1歳児、2歳児は、「毎日サーキット」をしています。身体機能全般と意欲そのものを促すルーティンの取り組みです。0歳児ふじ組の子どもたちも、歩行が確立した子どもを中心に、1人~3人くらい、遊戯室までお出かけして1歳児あか組の「毎日サーキット」に参加することがあります。それまでAくんは、歩行が十分でなかったので「毎日サーキット」に誘われることはありませんでした。そして「汚れ物ケース」に歩行で移動しはじめても、尚、担任たちは「毎日サーキット」に誘おうとは考えが及びませんでした。

「Aくんが、歩行しだした」=「ならば、あか組の毎日サーキットにお出かけしよう」と即刻、教育的な考え方に立てないのも現場の姿ですが、責められるようなことではないと思います。

しかし、ある朝、Aくんは機嫌を損ねて、いつまでも“ぐじぐじ”としていました。その姿を見て、担任は“そうだ!気分転換になる”と思い立って、サーキット会場(遊戯室)に連れて行きました。到着するなり、顔色がかわり、表情を明るくキラキラさせて、自らサーキットのコースの中に入り込んで、斜面をのぼり、遊び始めたのです。これも、担任が意図して「サーキット」に誘ったのではなく“たまたま”Aくんが機嫌を損ねたので、その“対応策”としての「サーキットへの参加」だったのです。私は、Aくんの機嫌の悪さは、担任の先生たちに対して「サーキット、させてくれよ~」と伝えるメッセージではなかったのか、と感じています。

この姿を見て、今度は、担任から、1歳児あか組が行っている「毎日リズム」に、Aくんを誘いました。もちろん、それまで1度も参加した経験がありません。参加してすぐに「うさぎ」の動きにとびつきました。両手を上げて、跳ねては倒れ、跳ねては倒れ、何度もにこやかに「うさぎ」を模倣していました。これらは、Aくん自身の発達や成長の姿ですが、「毎日サーキット」や「毎日リズム」や、そこに居た1歳児の子どもの動きに導かれた成果である、とも解釈しています。

0歳児保育について、日本のエライ人たちでさえ、「家庭ですべき」という神話の中にいます。

「はいはい」ができる広いひろい環境がある保育室。さらに「毎日サーキット」と池田すみれの特徴として「毎日リズム」を実践していること。毎日まいにち、息抜きはあっても、日課として手抜きをしないこの園は、かなり“いい線”行ってる!と思います。 【話題提供:池田 由似子】

週刊メッセージ“ユナタン”18―②

2016年7月6日 水曜日

≪ユナタン:18≫  at  もみの木台

~ “不可解な思い”から保育はひろがる ~

平成28年6月22日 片山喜章(理事長)

3歳児つき組の子どもたちと担任のY先生が砂場で遊んでいたときのことです。Aちゃんが、園庭側の道をあるく女の人とフェンス越しに何やら話をしています。
その人は、子どもたちが無邪気に遊んでいる姿を微笑ましく眺めていたところ、Aちゃんと目が合って、Aちゃんの方から「こんにちは。お名前は何?」と声をかけました。すると、「こ・ん・に・ち・は」と返ってきました。ところが、Aちゃんは、その人とバイバイした後、担任のところにやってきて、「お話ししてくれなかった」と寂しそうに訴えました。
担任は、「フェンスの向こう側だし、Aちゃんの言ったこと、ちゃんと聞こえてなかったんじゃない」と言うと、「ちゃんと、お話した!」と怒りをぶつけるほど、Aちゃんは反論しました。

実は、この方、中国の方で、いつも「こんにちは」と「バイバイ」だけ声をかけてくれます。
Aちゃんの「お名前は?」の“質問”は、“いつもの会話”とは違っていたため、少々、困惑されたのか、笑顔だけのお返事になったのだと思われます。Aちゃんは“どうして話してくれなかったのだろう?”と不可解さを感じながらも、それまで遊んでいた玩具が目に入ると「まっ、いいか」と気持ちを切り換えたのか、再び、それまでの遊びに夢中になりました。
そこに関わっていた担任は、Aちゃんにとって通り過ぎた“出来事”でも、自分的には「まっ、いいか」では、すまされない、そんな“もやもや”を感じながら、その日はそれで終わりました。

別の日、お散歩中、Y先生は、5歳児の子どもたちと歩いていて、ふと、“あの日のこと”を思い出しました。この5歳児の三人に“Aちゃんの出来事”をそのままの内容で話してみました。
“5歳児だったら、果たして、どのように考えるだろう”“どんな返事が返ってくるだろう”、と興味がわいてきたからです。三人は「なんでだと思う?」のY先生の問いに、まず一人が「耳がきこえなかったんじゃないの?」と切り出し、それから「Aちゃんの方から先に名前を言わなかったから、機嫌が悪くなったのかなあ?」。そして「見た目はどんな人だった?」「手の色はみんなみたいだった?」と、推理はどんどん“確信”に迫ります。さすがに5歳児です。そして、最後に、一人の子どもが、「じゃぁ、次、話をしても伝わらなかったら“こっち、来たら!”ってやったら?」と大げさに手招きするジェスチャー(身振り)をしてみせました…。

…ということは、もしかして、三人は、“この人のこと、言葉(日本語)が伝わらない外国の人だってわかって話をしている!?”。そこには既に“暗黙の認識”があるように感じました。
ならば、「子どもたちの、この“気づき”を、すぐにでも保育に活かさないとモッタイナイ!」と閃いたY先生。その瞬間、Y先生の“もやもや”は、スッと晴れたのでした。
その日の夜、たまたまバレーボールの試合がテレビ放映されました。「日本vs中国」の一戦です。そして、(ナント)、その試合を観戦していた子どもがいたのです。

翌日、「ジェスチャーで伝えたら?」と言っていた子どもから「この前の人、みんなと同じような人だった?」と質問を投げてきました。Y先生は “この子、もうわかっている!”と理解したうえで、あえて「なんで?」と聞いてみると「中国の人って、私たちと同じかんじだったよ!肌の色も一緒だし、髪の毛も黒いんだよ!」と興奮気味に話してくれました。そこで、Y先生は「じゃぁ、この前の人は、中国の人だったのかな? みんなと同じようだったけど。でも、日本語、分かってたらお話ししてくれるよね?」と返すと、ある子が「中国は日本語でお話しないんだよ!何語なのか探そう!」と言って、絵本コーナーにある「国旗の絵本」を熱心に見始めました。

あいにく、その絵本には“中国で話されている言語”については書かれておらず、「分かんないね…」と嘆いていましたが、なんとか、どこかに書いていないかと、懸命に他の絵本を読み、中国の事が載っている本を探し出し、遂に!“中国語で話す”ということを見つけ出したのです。その場にいた子どもたちは「“中国”って、どんな国なの?」と興味、関心を抱き、国旗の絵を描いたり、カタカナで書かれている“中国語の挨拶”を言ったり、それは、もう、大盛りあがりでした。
5歳児にもなると、自分たちが感じた疑問は自分たちで調べて、答えを出そうとします。まさにアクティブラーニングです。私たちは、それに応え、広げる保育を大事にしたいと思います。

幼児クラスのコーナーには、地球儀や各国の国旗があります。「中国」に対して興味を持った今、そこから、「世界」に対する興味や関心に広がるように、「環境」を充実させて「多様性」や「異文化」に慣れ親しみ、それを受け入れる受容力を育んでいく。それが、これからの教育・保育に不可欠である、とまずは、保育者自身が、しっかり意識し、認識し、実践していこうと考えています。

現実問題として、いま、世界情勢は、ほぼ全地域で混迷と混乱のさなかにあると言えます。
世界は、相互に複雑に絡み合って成り立っているので、混乱が連鎖します。自国の「国益」だけを志向する国家や政治家を“不可解”に感じます。“絡み合い”の中に居るからこそ「お互いを知る」、世界は、お互いに知り合うことから国家の枠組を超えた地球規模の平和が保たれる、そんなふうに考えると、上記のように、幼少期から、いろんな国々のいろんな事を調べたり、話したりしながら、知っていく。その姿勢や態度を養うことは、日本の教育の大きな課題であると思います

Aちゃんの「話してくれなかった…」という“不可解”な思いから始まった「物語」ですが、事の始めは、フェンス越しに道行く人に「挨拶」をしたAちゃんの行為です。山道で人に出会えば、見知らぬ人どうしでも挨拶します。挨拶する事にもまして“挨拶しようとする気持ち”、その気持ちこそ国や地域を越えて、とても、すばらしい人間の心だと思います。 【話題提供:佐藤廉菜】

 

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 ≪ユナタン:18≫ at みやざき

~ 涙・スプーンミルク・睡眠 ~

平成28年6月20日  片山喜章(理事長)

「たいへん、たいへん、速くお出かけしないと仕事におくれちゃう」と、朝、お出かけ前、ママがイライラした気持ちのままでいると、なぜか、わが子にもイライラが“感染”して、ぐずってしまうことがあります。特に乳児の場合、落ち着いてお家を出たとしても、園に到着して『シート』に記入して、それから着替えを「ロッカー」に入れて、さらに、あれこれ支度をしながら、お母さんの気持ちが「出勤モード」に切り替わったとたん、泣き出す子どもをよく見ます。

乳児なりの“危険予知力?”でしょうか。年齢が低いほど、親御さん、あるいは担任の先生たちの「心の状態」を言語や表情や仕草以外の「何か」によって察知します。ほんとうに不思議です。

言い換えると、私たち、子どもにかかわる大人が「心の状態」を整える事が、ある意味で、乳幼児教育の“基本のキ”であると言っても決して間違いではない、と思います。

0歳児さくらんぼ組のA君も代表的なそのひとりでした。機嫌よく登園しても、お母さんの仕草から「バイバイ」するのが確実だと感じ取ったとき、大泣きしはじめて、お母さんにくっつきまわります。そんな日々が続きました。お母さんも、うしろ髪を引かれる思いです。けれども、もしかしてその一方で、母親として慕われている実感が湧き出て、大泣きするわが子に対して、一層の愛おしさや母親としての“使命感”のようなものを味わい、“よし、仕事もがんばるぞ”とポジティブになる瞬間かもしれません。朝の辛い別れには、そんな大切な意味があるような気もします。

A君は、ある時期、体調を崩して休園しました。その後、回復し、元気に登園してきましたが、哺乳瓶でミルクが飲めない状態に戻っていました。園では、担任が、離乳食ととともに“回復への願い”を混ぜ込んで、“スプーンで200ccのミルク”を飲ませる日々がしばらく続きました。

今、現在、といえば、園生活に慣れ親しみ、よく食べ、よく遊び、ベッドでよく眠るようになりました。そして、朝、登園し、あれこれ支度をする際、大泣きすることもなく玩具に夢中!です。 お母さんが、「行ってきます」と手を振っても、キョトンとした顔。こうなると逆転します。

お母さんは、あれだけしがみついていたのに、と、寂しさに前髪を引かれながら、戸口で大きく手を振ってみたり、涙をぬぐう真似をしたり、何度もなんども「行ってきま~す」をします。

「揺れる親心」と「子どもの成長」、こんなすばらしい日常にふれていると“良い仕事しているなあ~”と思わず悦にひたる担任でした。もちろん、A君自身の育つ力とご家庭の愛情があってのことですが、“スプーンミルク”が心の栄養素になった気もします。 【話題提供:田村恭子】

 

  『1歳児いちご組のB君のお話しです』

朝、登園する時は大泣きします。やっと泣き止んでも、側にいた保育士が立ちあがるだけでまた泣きだします。その後、保育室の扉が開く度に「ママが来た」と思って泣き出すこともありました。

夕方も次々にお母さんたちがお迎えに来られるたびに、「ママが来た!?」(違った↓)と泣き崩れることが続きました。けれども、日中は、“ままごと”で遊んだり“がちゃがちゃ”を試したり、お部屋を探索したり、B君なりに、自分の世界を園内で広げているようにも伺えました。

私は、子どもが泣く意味について、あれこれ考えることがあります。めそめそとよく泣く子は弱い子でしょうか? いつもダダをこねる姿とは違います。自分の気持ちを外に出したい欲求の強い子でしょうか? 何とも言えません。感受性が比較的、強い子と言って良いのかも…。こんなふうに「親や保育者が、冷静になって、子どもが“泣く事”について、少し哲学的に考える行為だけで、“子どもとの信頼関係が強まる”のではないか」と新作の“仮説”を私は作り出しました。

そんなある日、担任は、いつものように“抱っこ”のまま泣きながら入眠するB君を、そ~と、ベッドに置いてとんとんしてみました。担任は、きっと、自分の腕の中でしあわせそうに眠るB君の顔を見て、抱っこ以上に「眠りの魅力」が勝るかもしれない、そう感じたとのことでした。

ベッドに横たわると、さっと目を覚ますB君に担任は彼の顔を見て、とんとんを続けると安心したのか、再入眠しました。そして、ときどき、途中で目を覚まして、周りを見渡して、また自分でコロッと眠ります。それからのB君は、よく、このような姿をくりかえし見せてくれます。

その頃から、B君は、園生活に慣れだして、とんとんしなくても入眠し、起きたら、どんどん自分で動いて遊ぶようになりました。入眠すると大人も子どもも“眠りの世界”にお出かけします。夢も見ていることでしょう。私の場合、夢を見ない日はありません。前夜の夢の内容は忘れても、3年前、10年前、子どもの頃の“秀作”はいまも時を越えて自分のなかで生き続けています。

B君は、午睡中、目が覚めて、夢から覚めても、周囲を見渡して、「ああ、自分は、保育園にいるんだ~」と「安心」してまた眠りにつき、また目覚めては、担任の顔を見て、一層「安心」してまたまた眠るようになりました。この姿に、担任はスコブル感激します。『あれだけ、泣き続けたB君が、園生活と自分たちに慣れ親しんだ証し!』 寝て、目覚めて、周囲を見て、安心してまた眠る。担任は『この仕事にやりがいを感じる最高の瞬間である』と力強く言い切ります。

もしかして、担任は、B君の泣き続ける姿から、その意味を哲学し、私の仮説どおり、信頼関係が強まり、さらに午睡中のB君の心の中で眠る“これまで抱っこされ、可愛がられた体験”が、睡眠を栄養源に、「安心感」を創造したのかもしれません……。  【話題提供;朝倉香也代】

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ユナタン:18≫ at 世田谷はっと

~ 創造と崩壊 ~

平成28年6月18日  片山喜章(理事長)

“カプラ”をご存知ですか。縦横11.8cm×2.4cm、厚さ8mmの積み木のような板です。

これまで主に5歳児つばさ組の子どもたちが、高く多彩に積み上げて「作品」を造っていましたが、5月頃から、4歳児そら組の子どもたちの間で流行りだしました。そのきっかけになったのは、もちろん、つばさ組の「作品」に刺激されたこともありますが、“カプラコーナー”に「作品見本」として掲示されている「数枚の写真」です。どれもこれも、なかなかの「作品」です。

それを見た人たちは活動意欲をそそられる、そんな写真です。レストランのHPでメニュー写真を見ると、行って、食べてみたくなる、あの“しつらえ”と似ています。

さっそく「こんなの作りたいな」「こっちの方がいいぞ」「いやいやいや~、これだよ」と活動意欲がどんどん積みあがります。激論の末? 子どもたちが選んだのは、“お家”でした。

お家づくりをはじめたのは、女の子たちでした。造りながらイメージをわかちあい、それを形にするには手先の器用さが求められます。そして集中力、持続力が必要です。ある程度、積み上げて、“お家”らしくなると、女の子たちは中断して、それぞれ違うコーナーに行ってしまいました。

しばらくしてやってきたのは、やはり、そら組の男の子たちでした。要領を会得してタンタンと積み上げる子もいれば、見よう見まねではじめた子もいます。そして迷い、戸惑いながら積み方を試している子など、1つの「お家づくり」のなかに多様な“腕前”と「気持ち」が同居しています。

ここに子ども本来の「学び合う姿」「大事にしたい教育の形」を認めることができます。

「あれっ、その積み方、ちょっと、ちがうな~。どうしよう? まあ、いいか~?」と横やりを入れるべきか、否かで躊躇していた担任の横に“カプラマスター”を自負する男の子たちがやってきました。彼らは「そうじゃないんだよなっ」と言って、何の躊躇もなく手直しをはじめました。

“さすが、カプラマスター♡”と担任はうっとりしていまいました。彼らは、せっかく積み上げた“お家”のかなりの部分を崩壊させて、その日から「創造の道」を歩み始めたのでした。

その“お家”が1mくらい積みあがった日のこと。

『……ガッシャ―ン🎶!!』 ホール全体に“お家”が大崩壊する音が鳴り響きました。お家づくりに参加していない女の子が、たまたま通りがかった時に接触してしまったアクシデントです。

…! 即座に“カプラマスター”が駆けつけます。その後ろには、他のコーナーで遊んでいた子どもたちが、見物客になって、ひとり、ふたり、さんにん、と、どんどん群がってきました。

さあ、これからどんなドラマが展開するのか見物客は興味津々。もちろん担任の先生もいろんなケースを想定して、気合いを入れて、きらきら、どきどき、そして密かに、うきうきしていました。

案の定「怒り」「悔しさ」「悲しさ」が嵐のように、その女の子に浴びせられました。担任は、その子が泣き崩れる姿を瞬時に予測しました。が、しかし、女の子は「ごめんね!」と語気を強めて返します。何度もなんども謝りましたが、“カプラマスター”たちはなかなか許そうとしません。

すると、女の子は半ば、逆ギレ状態になって、そこで見構えていた担任に「何回もなんかいも、ごめんねって言ってるのに許してくれない!」とプンスカ、プンスカ、怒り気味で訴えました。

すかさず担任は「なんで許してくれないんだろうね?! ○○ちゃんも“お家”を作ってみたら、どうしてなのか、きっと、わかるかもしれないね」と答えました。(goodな対応です)

その後、再び、“カプラマスター”たちが積み上げ直す日々が続きました。跡形もなく破壊されたけれども、ある程度、積み上げていたので、作り手には、そのイメージが残っています。なので短い工期(?)のなかで、あっという間に高さが1.5mほどになりました。

そんなある日、日頃、3人でいることの多い男の子トリオがやってきました。カプラコーナーに“カプラマスター”は居ません。

3人は続きを試みました。椅子を用いて高く積み上げていると、『……ガッシャ―ン🎶!!』という乾いた大きな音に拍子木のカン高い響きが広がります。

と同時にまた見物客。まったくカプラにかかわっていなかった3歳児おはな組の子どもたちも寄ってきて、見物者は、前回の倍くらいの人数になりました。もはや野次馬といった感じです。

もちろんカプラマスターも血相を変えてやってきました。おはな組の子どもたちも、崩壊させた3人に対して、恐る恐る正義感のある“叱責”をぶつけます。3人は凹んでしまいましたが、今回、“カプラマスター”はあまり彼ら3人を責めませんでした。これって、一体、何でしょう?

私なりの想像の域をでませんが、彼らなりに「創造」と「崩壊」、つまり諸行無常の理(ことわり)を薄っすらと感得したのではないか、と感じます。微妙なバランスで出来上がっている物は、いつか壊れる。それも1度ならず2度も体験したのですから“仕方ない”と悟ったのだと思います。

一方で“お家”は崩壊しても、彼らの頭には“制作方法”、体には“腕前”が崩れることなく、蓄積されています。それが3人に対する“寛容さ”をもたらせたような気もします。

いま、世界中の数多くの“国家”がかつてない規模で崩れるリスクを背負っています。ワールドニュースを見るとわかりますが、どの国もぎくしゃく、ガタガタしています。格差、汚職、抑圧。欧米EU各国、南米の国々、アセアン諸国、日本も、格差と安保と大借金で揺れています。

これまで創造してきた「権力構造」「経済システム」「国家という体」「人間の思考体系」が、崩壊に向かっていると感じます。「地球環境」も既知の数値以上に厳しいように思われます。

子どもたちには、崩壊を食い止める新たな創造の担い手になってほしいと心底、願っています。

男の子3人は“カプラマスター”の寛容さによって、すぐにケロッとしました。その姿に触れて私は、深い次元で安堵しました。これって一体、何でしょう?   【資料提供:鈴木郁美】

週刊メッセージ“ユナタン”19

2016年7月16日 土曜日

     ≪ユナタン:19≫ in 種の会
~ 泥んこ遊び・水遊び・プール遊び ~

平成28年7月7日  片山喜章(理事長)

雨上がり、水溜りを発見すると、わざわざそこまで駆け寄って、笑顔で、ぱしゃ、ぱしゃし始めたわが子の姿を見ると、お母さんは一瞬、言葉を失います。それから怒りが込み上げて金切り声で、制止に努めます。買って間もない靴も靴下もだいなしになりました。
「その子の笑顔」と「お母さんの怒り」、このコントラストは、一体全体、何でしょう。
水溜りのなかに魔物が棲んでいるのでしょうか、それとも宝物が隠されていたのでしょうか。

その子にすれば『とってもたのしい~。ぼくのフットパワ~で泥水は驚いて散っていく。強く踏みつけると遠くに逃げるし、ゆっくり踏むと水はじんわりと靴を飲み込もうとする』そこで、慌てて足を持ち上げる。『どうだ(ぱしゃ)、どうだ(ぱしゃ)(ぱしゃ)、ぼくって強いんだ…』と言わんばかりにはしゃぎます。まるでヒーローに扮しているようです。自分が汚したことで、お母さんは、きっと怒るだろうと予測はできるのだけど、その瞬間は、忘れてしまうのです…。

水には、生命を誕生させる不思議な力があります。体の中は、ほとんどが水分で、この時期、熱中症を引き起こさないように水分補給に心がけます。生き物にとって、水は、必需品ですが、子どもにとって水は、どんな玩具にもまして魅力的な存在にもなります。水、泥、土、砂は、今も昔も最大級の遊び相手であり“教材”である、と言っても過言ではありません。水や泥んこの魅力について、私たち保育者はよくわかっていますが、再認識する必要もあります。

「泥んこ遊びの日」以外の日に園庭で水を出して遊びだすと、金切り、まではいかなくても、木切り声くらいで「即刻中止!」を促す事があります。いろいろ“ダンドリ”があるからだろうと思います。この時期はまだしも、4月早々、10月後半など、夏場でなければ「風邪を引く」などの根拠に乏しい理由を持ち出して禁止する場合があります。“今日、あなたの子は(楽しく)水浸しになりました”あるいは“泥んこだらけになりました”と前日に“お知らせ”がなくて、結果報告だけを受けると、保護者の方は、園に対して、不満や不快を感じたりしませんか?
年々、その傾向が強くなってきた気がします。“活き活きさ”を引き出すだけでなく、“情緒の安定”“癒し効果”においても、水遊びや泥んこ遊びは、昔も今も最高級の活動です。怒られることがわかっていても、“したがる子どもの気持ち”や“意欲”を、ぜひ、ご理解ください。

しかし、一方において、プール遊びとなると、少し事情が異なります。楽しい思いをするだけでなく、嫌な思いをする場合もあります。また「水の怖さ」も伝えねばなりません。
プール遊びには、「3つの柱」があります。
1つめは、「自由にオヨグ」ことです。それは、自分の能力や課題にチャレンジする機会でもあります。ある子はワニさん歩きをしたり、また、ある子は顔付けをしたり、潜ってみせたり、それぞれその子らしい「表現」をします。そのとき、決まって“見てみてコール”を放ちます。
両手で体を支えて、両足を浮遊させる“ワニさん”の何ともいえない不思議な感覚に思わず、「センセイ、見てみて」と叫びます。この子どもの気持ちや姿を最も大事にしたいと考えます。
こんなとき、大人は、ただ頷くだけで良いと思います。「では、今度は、お顔をつけてみたら」と返すのは、この姿を認めていないことになるので、あまり望ましくない、と考えています。

この「自由にオヨグ」ときには、約束を設けます。「水かけ禁止」です。それぞれが、マイテーマに挑んでいるときに、水を掛けられるのは、迷惑です。けれども、その後「水かけタイム」を設けます。まず、真ん中にいる先生に水をかけたり、先生の代わりにできる子を募ったり、2チーム対抗で「水かけ大会」をしたりします。ふいに水をかけられと泣いてしまう子も「ゲーム形式」にすると、耐えようとしたり、顔を背けて、わが身を守ろうとしたりします。

2つめの柱は、「集団遊び」です。「渦巻き」といわれる方法で、みんなが同じ方向に走って、止まってワニさんになったり、体を浮かせたりします。水流に乗って、得も知れぬ面白さを味わいます。また、ロープを使って、水中綱引きをしたり、物干し竿を握って、レスキュー隊のように匍匐前進したり、円錐標識を使って、2チーム対抗の玉入れならぬ水入れをしたりします。
水の中、という特殊な環境の中での“ふれあいゲーム”をする、というかんじです。

3つめは、「泳ぎに向けて」というテーマに挑みます。両サイドにわかれて、1,2の3で、壁をけって、ロケット(ワニ)になる“ケノビ”をしたり、高さ30センチのベンチを沈めて、そこから飛び込んで、連続して泳いだりします。しかし、ここでもその子らしさを認めます。
飛び込みをする子、飛び込みではなくて飛び降りて、ワニさんになる子、それはその子自身が、自分の気持ちや力と“相談”しながら決めることなので尊重します。保育者的には、なんとか、レベルアップしてほしいと期待しますが、その子なりに「危険回避」「自分の身を守る」ことを考えて判断していることなので“本気”で尊重することが、大事である、と考えています。

35年前、保父さん時代、5歳児を市民プールに連れて行って、足の届かない大プールを経験した時(25名の子どもに引率4名)、ひと通り、大プールを味わった後、選択にしました。
その時、多くの子どもは先生のサポートを受けながら、大プールを満喫していましたが、3人だけ、ずっと赤ちゃん用の小さなプールで遊んでいました。その中の1人は、当時、まだ珍しいスイミングに通い、バリバリに泳げる子であったことが、今も、強く、印象に残っています。

週刊メッセージ“ユナタン”21

2016年9月16日 金曜日

     ≪ユナタン:21≫ in 種の会
~ オリンピック競技と運動会の主役 ~

平成28年9月9日  片山喜章(理事長)

運動会は、オリンピック同様、本番1度切りのものです。ですから“本番の雰囲気や盛り上がり”“種目のおもしろさ”“当日のわが子の姿”が、保護者の評価(結果)になります。
本番、力発揮できなかった子に対して担任は「練習中はすごく良かったんですけどね~」と、その子の保護者に慰めの言葉をかけることがあります。けれども、結果を一番気にしているのはその子自身かもしれません。親が落胆しすぎても、過度な慰めやフォローをするのも適切ではないと思います。「出来、不出来よりも、大勢の観客に応援してもらったワクワクドキドキ経験」に大きな教育的価値があると、再度、確認したいと思います。本番、その子が雰囲気に圧倒されて固まったとしても、その経験はその子のその後の成長において、きっと「宝物」になる、そんなふうに見通して、わが子を信じる親心が、21世紀型の教育ママのマインドだと思います。

ご存知のように、私自身、「運動会」に関する“すばらしい”図書を何冊も発刊しています。関係性を深める「種目内容」と子どもが最大限に力発揮できる「独自に開発した練習方法」が記されています。30年以上、毎年(今年も7回)、全国各地から講習会に招かれ、法人各園も、私に導かれて企画しています! と、こんなふうに事実を“誇示”すると不快に感じませんか?
謙遜することが美徳とされる日本の文化の中で、ここ1番で物怖じしない強い精神(日本人の苦手な分野)を育むには「謙虚」「控えめ」を美徳とする風土を見直す必要があると考えます。
現在の課題である「自己肯定感」や「自尊感情」を育むには「友達や自分の良いとこ探し」を教育・保育の要に据えて、世の中が後押しする、そんな風土づくりが必要であると考えます。
今後、ますますITに浸食される子どもたちが、“自分のがんばり”を臆せず堂々と語り、周囲はそれを是認する、そんな日常をつくりだす事が日本的課題だと思います。それが、その子の力を伸ばし、困難を乗り越える人格を形成していく……。日本の保育者や学校教師だけでなく、行政の慣習や企業文化においても、そうあるべきだ、と五輪を観戦していて強く感じました。

五輪出場をめざし、さらに、そこでメダルを取るためだけに自分を律し、体力の限界まで自分を追い込むことに最大級の生きがいを感じる(他方で人格崩壊の現実もあります)。ほんとうに人間とは、不思議な生き物です。より多くの人たちに称賛されたい。そのための必死の努力が、人格を磨くように思われます。“自分らしく生きる”とは、自分が社会から認められるために、多彩に“自分磨き”するといえるかもしれません。他方で、紛争地などで困窮した人たちを支援する献身的な生きざまもまた“人間らしさ”として敬服します。「では保育という仕事は、一体どっちだろう?」とふと我に返り、“わたしらしさ”を考える機会を得た五輪でもありました。
運動会の練習にはどんな意味があるのでしょう。バルーン演技では「一斉に戸外に出て振り付けを覚える」という日本の旧態依然とした練習方法を脱して「振り付けは動画を見て覚える」(子どもの覚える力は大人の数倍)⇒「自分たちが覚えたことを演技してみる」⇒「自分たちが演じたものを動画に撮る」⇒「動画を観て振り返り(対話)をする」というのが基本手順です。覚えたことを観てもらう以上に、子どもどうしで対話することが、これからの教育(保育)です。
その意味で法人各園は、時代を先取りしていますが、問われるのは「対話の内容」です。
これまで、自分たちの演技を動画で見て“不出来な部分”を子どもどうしが指摘し合う対話がありました。子どもどうしが指摘し合うと、先生は「助かる」という本音があります。しかし、友達のミスを言い合って完成させる過程は好ましいのかどうか、大きな疑問が出てきました。

最近、良かったところだけを互いに発言し合う対話が、よい成果をもたらすことがわかってきました。実際、自分たちの出来栄えを動画で見た後、「友達の良い所探し」をどんどん発言すると、子ども集団はぐんぐん明るくなります。友達どうしが互いに褒め合う経験は、友達(他者)に対して、寛容になる精神を育み、それはやがて自分を褒める(自己肯定)精神と根っこの部分で繋がっていくように思います。このような褒め合いのなかで、演技の完成度を上げるために、先生が指導!すると、子どもたちの改善意欲はぐんと高まり、好結果を出そうと奮闘します。

アートなどの世界も同じようなことがいえます。自分の作品を他者に認知(評価)されて、ようやく「表現」という範疇で扱われる時代になってきた感じがします。1、2歳児の製作活動は「探索活動(科学の心)」と考えます。4、5歳ともなれば、導入法はさておき、1つ1つの作品に対して、友達から褒められる合評会をしたり、その作品を額にいれて展示して、はじめて、その子どもの「表現」と考えるようになりました。幼児教育界に広がってほしい考え方です。

では、保育園(こども園)の子どもたちにとって、「運動会」は、どんな表現でしょう。
種の会オリジナルの練習法は「覚える」ことではなく、「覚えたモノで対話する(褒め合う)」と前述しました。本番、物怖じしないためにも、練習中、子どもどうしの褒め合いは有効です。
組体操の練習では、子どもどうしが、ぶつかり合い(激しい対話)を重ねます。練習のたびに葛藤したり納得したり、達成感を味わったり苦味を味わったり…。その経験の積み重ねによって、本番までに強い仲間意識が育まれる、そんな見通しをもった練習方法(教育方法)です。

最後に、本番、最も重要な役割を担うのは、観客です。全保護者が歓声を上げ、全種目、全園児に拍手や大声援を送っていただくことが大事です。五輪のメダリストたちは言います。
『日本のみなさんの熱い声援に後押しされて、メダルがとれました。感謝します』と。
みなさん、全園児を後押しして、全園児から感謝される存在になろうではありませんか!

週刊メッセージ“ユナタン”23

2017年1月6日 金曜日

≪ユナタン:23≫ in 種の会

~ 運動会を通した「競争」と「協同(協力)」のあとで ~

平成28年10月11日 片山喜章(理事長)

既に運動会を終えた園と、今週、運動会を開催する園があります。きっと園の雰囲気に大きな“違い”があると思います。今週末に開催する園は、いま、園全体に「緊張感」が漂っているでしょう。既に終えた園の子どもたちの表情にはきらきらと達成感の残り火が灯っているでしょうし、先生たちも安堵感に浸り、一息ついたら、きっと「秋」をテーマに、そのクラスらしい保育を展開するだろうと思います。

運動会本番が終わるまで、子どもたちが集中して発揮した「競争」と「協同(協力)」のエネルギーは、運動会を終えた達成感や解放感と“融合”すると、一層、豊かな探求心や表現欲求に変容するだろうと期待しています。夏の暑さを通り過ぎて、秋には収穫の時を向かえる四季の移り変わりのように、子どもたちを取り巻く園生活の変化が1人ひとりの成長を後押しするだろうと思います。そういう意味で「運動会」と「発表会」は、いかにも日本の文化のDNAを引き継いだ大切な行事だと言えそうです。

≪競争の意味を考える≫
私自身、いつも思い考えるのは、運動会には欠かせない「競争(勝敗)」についてです。
勝ち負けの現実(感覚)を体験することは、どのような教育的価値があるのだろう、またその年齢にふさわしい競技内容は?等、常々、思案(私案)し、提案しています。
生き物は「生存競争」「弱肉強食」の摂理の中で命を保ち子孫を残すことが“生きる”ということです。一方、どの生き物も「種の保存」のために「協力・協同」「支援・援助」という“助け合う精神”も本能的に持ち合わせているはずです。

しかし、いま、世界規模で拡大し続ける格差、際限なく広がる国際紛争に目を向けると「生存競争」「弱肉強食」の域を超えた「非生物的状況」に至っています。“不条理な競争原理”は世界経済の常識になり、“利己的な自国益主義”は、国家の基本思考に至っているように感じます。そんな「状況」に負けずに“しっかり生きよう”という気持ちを育むために、逆説的に「公正なルールに則った健全な競争体験」が必要だと確信しています。競うことで、一層その子らしさが顕在化するという見方です。ですから運動会では「かけっこ」「トラックリレー」「2人組以上の競技」などで「勝った!負けた」と一喜一憂する経験が必要であると考えます。リレーでは自分のチームの誰かが抜かれたから劣勢になり、抜き返したから優勢になる、そしてアクシデントを含めたチーム全体の“正味の実力”で勝負の結果を味わう。それが大切である、という考え方です。
≪公正なルールの下での競争なら、より良い教育になりえる≫
競争渦に居ると、悔しい思いを経験したり葛藤体験を味わったりします。けれども、公正なルールのなかの競争は、健全な自己発揮を保障するものであり、同時にそれは、協同(協力)する精神を育む源泉になると捉えています。リレーで最後に走ったA君が抜かれて、自分のチームが敗れた時、チームメイトは何を感じるでしょう。A君なりに精いっぱい走る姿を目にします。“A君、遅い(怒)!”“悔しいけど、仕方ないか~”というのが、自然に湧き出る感情です。腹立たしく思ったり、責めたいけれど責めてはいけないと感じたり、自分だって抜かれたかもしれないと考えたり‥‥そのくりかえしの中で理屈を超えて“寛容さ”や“多様性の容認”は育まれるのだと思います。
サッカークラブや野球教室とちがって、運動会競技は公教育です。同じ5歳児クラスでもその子によって興味の対象や得意、不得意なものは異なります。まさに1つのクラスは多様性のカタマリです。「相手と競う精神」と「チーム内で協同(協力)する精神」が複雑に混ざり合う経験を通して、成長(教育効果)が期待できると考えられます。

≪協同(協力)の精神は大切だと言われるけれど……≫
バルーンや組体操のような、競技ではない演技種目では、仲間の中で自分の役割を果たすことを意識しながら、力を調整する能力が求められます。このような調整型、協調型の力発揮は、日本人が得意な分野であり、この“強み”は独創性においては“弱み”になると言われています。また、“みんな、ちがって、良い”という声や言葉をよく耳にしますが、保育や授業の内容も形態も、一斉型で“みんな、同じように”という考え方が無自覚に多数を占めています。これを協同、協調の精神の具現であると捉えることもできます。賢者や識者が語る保育・教育と現実の間に大きなギャップがあるのが日本の特徴です。これを教育界の混迷と言わないで“みんな、同じように”という考え方の中から素晴らしい面(エキス)だけを抽出しようと、今、思案(私案)中です。

いずれにしても、保育者がその子が持つ興味の度合い以上の能力を求め過ぎたり、わが子が持っている適性外の事に対して、期待し、成果を求め過ぎたりすることは避けたいものです。その結果、自分自身に肯定感が持てなくなって、他者を受容する力が弱くなり、一定の成績(学力)は身に着けても、人格として歪んでいくケースを実際、よく見聞きします。今後、その傾向は、ますます強くなるように思われます。

その子なりに“探求心”“競争心”“協同性”“寛容性”の4色のペンを駆使して「自分」を描けるように導くのが、保育・教育の役割です。そのためにも「運動会」に集中した後は、個々が興味を広げる保育を展開し、「発表会」が近づく頃には、クラスが再び集中する、そんなメリハリのある園生活が確かな成長を支えるのだと見通しています。