種の会からのお知らせ

週刊メッセージ“ユナタン”25

 ≪ユナタン:25≫ in 種の会
~ 秋、ひといき、つきながら… ~

平成28年11月9日  片山喜章(理事長)

秋が深まると冷たい空気がさらさらの粉になって、頬や首筋を撫でていく感じが伝わってきます。
そのせいで、わけもないのに寂しさや人恋しさが、何の脈絡もなく込み上げることがあります。
その合間あいまに、“色んな今”を、“あれやこれや”と思索してしまうことがあると思います。

【 10年に1度の「保育指針」「教育要領」の改定がなされます 】

保育指針や教育要領には、保育園の保育や幼稚園の教育に対する国の考え方が明記されています。と言っても、お薬手帳くらいのサイズで、厚さも私のお薬手帳くらいの薄っぺらな冊子です。それが今年度、改定作業に着手しました。10年に1度のことです。夏が過ぎた頃、「中間取りまとめ」というものが出ました。来年、仕上がり、1年かけて周知して、再来年度から施行するというスケジュールです。薄い冊子ですが、凝縮された「文言」が埋まっています(ネットで検索してください)。けれども、この今の状況、現場の先生たちは関心がありません。ほとんどと言っても間違いありません。改定されることさえ知らない先生も、日本中、たくさんいるのです。

なぜなら現場の保育者は、行事をいかにうまく乗り切るか、A君とB君のトラブルをいかに解決するか等々、自分の園の目の前の出来事に一生懸命だからです。保育は、ある種の「格闘業」ですから「文言」で示された「指針」の「抽象的なあるべき論」は、深く読み込んでも、何の役にも立たないと感じてしまうのです。当然といえば当然です。実際、私自身、むかしむかしその昔、9年間、現場で保父さん(男性保育者)をしていて、そう実感していました。その当時からこんにちに至るまで、国は、現場をわかっていない、わかってくれない、とずっと寂しい気持ちのままです。

10年に1度、恒例行事のように「文言」だけが、改定されていきます。改定作業のプロセスや「指針」自体について、折に触れ「ニュージ―ランドのテ・ファリキ」「バイエルン州の陶冶カリキュラム」を引き合いに出して、抜本的な見直しを訴えてきましたが、わずかに賛同する人はいても、ず~と、スル~され続けています(ウザイ奴なのです、私は)。今の指針を、例えて言うなら、子どもにとって必要な栄養素は明記されてあるが、どの食材にそれが多く含まれているか曖昧で、調理=実践するためのレシピがない。つまり、日々の実践において、役には立たないのです。

保育は計画し実践し振り返ることが原則です。しかし、今までの「指針」がなぜ活用されてこなかったのか、その検証がなされない(そんなことしたら抜本的にやり直さないといけませんから)。なので、現場は「指針」や「要領」に関心を抱かない。なので“つくり”も現場から乖離する。
つまり、現場ファーストでないことが悪循環を招いている、というのが私の素朴な意見です。

 

【 なぜ、日本の企業文化や労働環境に言及しない 】
「指針」には子どもと保育について書かれているのですが「はたらき方」の改善について言及されていません(国は別の部会でしています)。各園に対して「こんなふうに保育しましょう」というなら、そのための「家庭基盤」をきちんと整えようと社会に訴えていただきたいものです。

昨今、過労による悲惨な出来事が話題になり、問題視されています。家庭支援と言えば福祉の名目で金銭的補助の施策に偏っていますが、大手会社で収入の多い家庭においても、悲惨な出来事が起きています。「指針」において「日本の企業文化や労働環境の改善」が家庭基盤を整え、それが「子どもの健全な育ち」の大前提になることを、冒頭(総則)に、あるいは第一章に謳わないのは、指針自体の社会性の欠如だと思います。ここでまた、もどかしい気持ちになってしまいます。

 

【 小学校との接続というけれど・・・ 】
今回の「指針」や「要領」には「小学校との接続」が盛り込まれる見込みです。小学校は小学校で、「アクティブ・ラーニング」がさかんに語られています。というか、知り合いの先生たちは、ゆとり教育が打ち出されたときのように困惑しています。1人ひとりの机が前を向き、1人の先生が子どもたちと対面するスタイルでは、アクティブになることは、ひじょうに困難です

法人全園共通のバルーンや組体操の練習方法と本番の姿を思い描いてください。“決まった振り付け”や“決まった形(タワーやピラミッド)”は、あっても、特に先生の指導はありません。互いに見合って教え合い、ビデオを見ながら、自分を意識し(知り)、友達を意識する(知る)過程を通して、自分たちでやりきる、言ってみれば「幼児版アクティブ・ラーニングの授業」です。「文言」ではなく、このような実践として、子ども集団に任せ、子ども集団に委ね、子ども集団がやりきって結果を出せるように“導く”教育観が普及しない現状をとても寂しく残念に感じます。

小学校長や教育委員会の知人と保幼小連携の話をして、互いに嘆くことがあります。保幼小がお互いに行き来していない現状で、連携や接続を求められてもイメージが持てないのです。
授業参観に出向いたとき、思った事、感じた事、話し合いたい事が山のようにありました。道徳の時間に正解が1つしかないこと(絶対、おかしい!)に驚いたことがあります。逆に、園の運動会や発表会に1年生の担任の先生が来られたことがあります。“ちっちゃく、かわいい1ねんせい”よりも年下の年長児が、トラックリレーや相手を決めない組体操をする雄々しい姿に驚かれていました。このような互いの“驚き”をわかちあって話し合って、互いに考える機会を持って、そこで話し合われたことを吸い上げて策を講ずる。そんなボトムアップの手法を期待しています。自治体レベルで公開保育と公開授業を相互に画して、くりかえし実施して、地域で関係性をつくりだすことが第一だと考えて提案しています。そうなれば、毎年まいとし、送り出した卒園児たちの成長した姿にも出会えます。 にわかに人恋しさがこみあげてきました。