週刊メッセージ“ユナタン”26(なな)
≪ユナタン:26≫ at ななこども園
~ いのちのつながり ~
平成28年11月21日 片山喜章(理事長)
4歳児あさがお組は、3歳児ゆりぐみの時から身近な虫に興味を持っていました。劇あそびも「だんごむしのころちゃん」を題材にしました。4歳児に進級した(担任は持ち上がり)際には、メダカ(虫ではありませんが…)とダンゴムシの世話を自分たちでするようになりました。
そして6月、カタツムリが仲間入りすると虫の図鑑もよく広げて見るようになり「にんじんとキャベツ食べるねんて!」と給食の先生のところへ行き、給食で残ったヘタをもらえるようお願いをして毎日取りに行っています。また、貝殻も食べことを知ると夏に海へ遊びに行った友達が貝殻を持ち帰ってきてくれて、カタツムリにあげてくれていました。カタツムリは、にんじんを食べると赤いウンチ・キャベツやきゅうりを食べると緑のウンチをすることもわかりました。
このように虫(生き物)に対する興味や関心がどんどん湧いてきたようでした。
夏から秋にかけては、“バッタ”・てんとうむし・コオロギと、子どもたちの虫への熱は上昇し、ある日の散歩で“カマキリ”に出会いました。カマの形をしたかっこいい前足、凛とした顔に興味津々、帰園してすぐに図鑑で調べました。「カマキリの餌は、草、アブラムシ、“バッタ”など」子どもたちは書かれている中味は理解したようですが、実際にあたえていた餌は、草ばかり‥
フリーデイの日、みんなそれぞれ好きなコーナーで遊んでいるのに、何度も何度も自分の部屋にもどってきては「カマキリ」の入ったケースを覗きにくるAくん。「どうしたの?」と担任が声を掛けると「かまきりさん、元気ないねん」(そう言いながらケースを持って見せてくれる)。
確かに、朝一番は元気に動いていた「カマキリ」が、じーっと動かずにいました。A「全然動かへんやろ?」保「ほんと、何でかな?」A「うーん…。わかれへん。ちゃんと草あげてシュッシュ(土や草の乾燥を防ぐために、子どもたちが霧吹きで水をかけています)してるのに」
保「そうだね~。みんないつも面倒みてるのにね。どうしてかな~?」A「わからんから、みんなにも聞いてみるわ!」ということで、朝の会でみんなに話してくれることになりました。
「カマキリさん元気ないねん」というAの投げかけどおり、カマキリは横たわっていました。「なんでやろ?」「かわいそう…」「死んじゃったんじゃない」「死んでない!お腹動いてるもん!」「じゃあ、寝てるんじゃない」。「あのさ、葉っぱ食べてないで~」というBの言葉でさらにケースを覗き込み「ほんまや~」「なんでやろ?」「この草じゃないのが好きなんかな?」などなど。B「あのさ、カマキリさんの餌、ここに書いてるで~」(部屋にある図鑑を持ってきてくれる)。そのページを開き「草、マブラムシ、“バッタ”…」と、ふつうに読んでくれました。
ほとんどの子が「そんな、知ってる~」と言ったものの(あれっ?)話は前に進みません。しばらく考え込む子どもたちです。そしてCくんが「ばらさん(5歳児クラス)も、カマキリ、飼ってるねんて~」とポツリ……。担任が「そうなの? ばら組さんは、どうしているのかな?」と、投げかけてみると、Dが「じゃあ、ばらさんに行って聞く?」と提案したのでした。
5歳児ばら組は園庭に出て留守でした。そして「カマキリ」のケースを覗くと元気でした。「しっかり立ってる!」「シャキン!って元気や!」「ほんまや~」と子どもたちは驚きました。C「な~、なんで、ばらさんのカマキリって元気なん?」という問いに、たまたま部屋に戻って来たばら組のE(女児)は「餌とかちゃんとあげてるもん!」と誇らしげに言いました。
Fが「ぼくたちも、ちゃんとあげてるで。なあ?」と言うと、他児も「うん!」と頷きました。Gは「草も枯れてきたら、ちゃんと新しいの、入れてあげてるやんな~」「うん!お水シュッシュもしてるもん!」などいろいろと返していました。
すると、ばら組のEは「え~?餌は、草じゃないで~!。“バッタ”とか、ダンゴムシやで!」
……「チン~」その一言に、あさがお組の子どもたちは沈みました。“バッタ”は飼っているし、ダンゴムシもゆり組の時から親しんできたのですから、無理もありません。「それからな、あんまり水もいっぱいにしたらアカンで~」とEは、さらにアドバイスもしてくれました。みんなは、Eにありがとうと言い、またクラスに戻って、話し合いをすることにしました。
さきほどまでの活気は無くなり、部屋中、どんより暗くなっていました。こんな時、大人はどのようにかかわればよいのでしょう(あなたなら、どのような言葉を投げかけますか?)
担任は、仕切り直して「Eちゃんは何て、お話してたっけ?」と尋ねました。Bは「あのさ“バッタ”、食べるって…」「ほんとにそう言っていた?」と担任が確認すると「うん」と全体が頷きます。この雰囲気の中で、どのように話を進めていけばよいのか、担任を悩ませます。
担任は「そっか~。Bくんも図鑑に書いているよ、って、さっき読んでくれたもんね」と念押しました。きっと図鑑にあった「餌として“バッタ”・・」と書かれたある文言と自分たちが飼育している“バッタ”が即座につながらなかったのではないかと思われます。
それに対して、Hが「え?でもさ…」と何か言いたい様子。担任が「どうしたの?」と尋ねると、Hは、「でもさ、バッタさん、可哀想やん」と小声で話してくれました。
担任は「どうしてそう思うの?」と再度、尋ねると、H「だってさ、死んじゃうやん…」そのHの言葉に、Fは「え~?でもさ、じゃないとカマキリさん死んじゃうやん!」と言い返します。
そこからは「そうや!死んじゃったらもう、生き返らへんねんで!」「命は一個しかないもんな!」「死んじゃったら、もうご飯食べたり、お母さんとかお友だちとかに会われへん、ってことやねんで~」Hの考えに賛同しているのか、Fの考えに賛同しているのか、どっちがどっちだかわからないまま少し声のトーンはあがって意見交換が続きます。
担任は「(カマキリに)バッタさんあげないと駄目なの?」「草も食べるんだよね?」と、もう一度、聞き返すと、「うん!」「だってさ、カマキリさん元気ないもん!」「草だけやったらアカンって言ってたし…」と、1人、2人、3人…と声が広がっていきました。
「そう。じゃあ、バッタさん入れてあげる?」と担任が問い返すと、Hは「え、アカンアカン」するとFは「だから~、あげへんかったら、死んじゃうねんで! それでもいいん?!」
まさに生死がかかった葛藤が続きます。「バッタを餌にしないとカマキリが死んじゃう」と言われてHは、じっと黙って辛い表情を浮かべていました。そこで担任は「みんなはどう思う?
カマキリさん死んじゃったら駄目だからバッタさんあげる?でも、そうしたらバッタさんは死んじゃうんだもんね?」と再度、問いかけると「うーん…」と考え込む子どもたちでした。
この場面、保育として大切なことは、この難問を何度も反芻して、個々の子どもがより深く考える(思考する)ことだと私は考えます。話し合いの時間をしっかり確保し、担任が早々に決断しないことです。4歳児の子どもたちは、まだまだ思い付き(ひらめき)で物事を考えます。
このような難題は、くりかえし話し合って、個々の子どもが問題と向き合って苦悩する経験が教育であると考えます。“こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てばこちらが立たたない”しかも、大切にしている生き物の生死にかかわるテーマです。この難題を個々の中で思い悩み、それをクラスの仲間とじっくり時間をかけて話をして深めたことで“仲間とのつながり”も強くなり“バッタ”も「カマキリ」も生かされる、と考えられます。
さてさて、担任は、別の切り口で迫ります。「みんなは、バッタさんとカマキリさん、どっちが大切?」と問うと、考え込んでいた子どもたちは一斉に「両方!」「どっちも!」「バッタさんもカマキリさんも好き!」と元気よく答えて全員一致! どちらも生かすという願いだけを言葉にするだけで、子どもの気分は晴れやかになります。これもまた子どもの素晴らしさです。
「そうか~。みんなバッタさんもカマキリさんも、大切にしたいと思ってるんだね」「でも、カマキリさんにバッタさんをあげちゃったら、バッタさんが死んじゃうし、バッタさんを大切にしたら、カマキリさんが死んじゃうし…。難しいね~。どうしようか?」と担任は、再度、現実を突きつけます。晴れやかになった気分を現実に戻して、苦悩や葛藤に向かわせるためです。
願いは現実に引き裂かれます。「不条理な道理」を何度もなんども問いかけられて自問自答をくりかえすうちに、「生き物が生きること」について、何かを感得してほしいという保育者の側の願いが現実のなかに現れます。まさに「命とは何ぞや」という哲学や宗教のテーマです。
保育者として、たんたんと子どもたちに投げかけながらも、担任自身も答えの無い問いに内心、唸っていました。(弱肉強食…)(食物連鎖…)。(この話し合い、着地点をどうしようか…)。
と、思い悩んでいたところに、Bくんが「じゃあさ、残念だけど、死んじゃったバッタさんを入れてあげたら、どう?」と一言、ポツリ…。すると、その一言に「そうやな~」「そうしよう!」と喝采が沸き、あっという間にお部屋に明るさが戻りました。
担任は「みんな、それでいいの?」「そうしてみる?」「でも死んだバッタさん、探せる?」と語りながらも、担任自身、ほっとしたような軽い気分になり、死んでしまったバッタを入れてみることに決まりました。果たして子どもたちの試みはうまくいくのでしょうか。それとも‥‥。
後日…カマキリは元気にならず、子どもたちは気にかけていました。
この話し合いをした二日後の事、飼っている“バッタ”や「カマキリ」のケースを持って散歩に出かけました。もちろん目的は大好きな虫探しです。到着と同時に虫探しをはじめる子どもたちの姿は、今も昔もかわりません。そしてバッタを捕まえてはケースにいれる姿がありました。
ところがハプニングが起きました。誰かが捕まえた“バッタ”を誤って?「カマキリ」のケースに入れてしまいました。すると元気のなかったカマキリが、すぐにバッタを捕まえてむしゃ、むしゃ―――。子どもたちの目に入ります。「え~~~~~」と固まりつつも、バッタを食べる「カマキリ」を観察。その後、カマキリがとても元気に動き始めました。ケースを覗いてみると、前日、みんなで入れた、死んだバッタは手つかずのまま残っていることに気つきました。
またまた、散歩から帰ってきて話し合いタイム。「カマキリ」は生きたバッタしか食べないということがわかり、またまたまた、みっちり長い話し合いとなりました。飼っている“バッタ”ではなく、「カマキリ」の餌は、狩に行くように散歩に行った時にバッタを捕まえて、一匹だけ“ありがとう”って言って、餌にするということに決まりました。子どもたちが大切に飼っている“バッタ”と「カマキリ」。同じバッタでも、あさがお組で飼っている“バッタ”と狩に出かけて「カマキリ」の餌として捕るバッタはちがうのだ、と身勝手に考えるのが人間社会の姿です。担任は、「子どもたちにわかりやすく伝えるには?」と悩んだそうですが、ていねいに子どもたちと話し合いを重ねて、答えのない問題であることに気づかせるのが真の教育の在り方です。
「生き物を大事にしよう」というスローガンは大事だとは思いますが、園や学校で。生き物を大切にするために「いきものがかり」という単純なことではないことだけは確かです
ニワトリやアヒルを飼育している園や学校があります。一生懸命お世話している子どもたちの夕飯がフライドチキンだったり、校長先生が会食で北京ダックをいただいたり、私たちの生きざまは絶えず矛盾を抱えている。懺悔する必要はないと思いますが、魚や豚や牛の命と引き換えに自分が生きている。図鑑を見なくても誰もが理解していることです。理解している事以上に、時々、立ち止まって深く考えて話し合ってみる、そんな態度が慈しみの気持ちを育むと思います。
けれども、いま、私たちは、日本の一般人が実感している以上に生態系が狂っている現実に包みこまれています。弱肉強食や食物連鎖のサイクルは乱れ、人間の好奇心や探求心や知性と物欲があいまって温暖化が進み(映画『The 11th Hour』推奨)、人間が多くの動植物の生き様を破壊している事実があります。今いる子どもたちの子どもたちのことを考えた教育・保育の在り方に思いを寄せる機会になりました。【エピソード記録提供:池 朝日】