種の会からのお知らせ

週刊メッセージ“ユナタン”26(みやざき)

             ≪ユナタン:26≫ at みやざき保育園

~ いけないことをまなぶ ~

平成28年10月24日 片山喜章(理事長)

 

『とある出来事』

ある日の朝。玄関で年長児クラスのAくんがお母さんから離れられず、泣いていました。年長クラスなので、別れが辛くて泣いているとは思えず、登園途中に何かあったのでは思って、職員がお母さんにお話を伺うと、その前日の『とある出来事』がAくんを苦しめていたのでした。

前日、Aくんは同じクラスの友達数名と室内を駆け回っていました。他の友達は外遊びをしている時間です。その様子に気づいた担任は「みんな外に出ているのに部屋で走っていると危ないし、ケガするから外に出よう」と声を掛けました。「は~い」とその場ではみんないいお返事をします。しかし、その後、しばらくして担任が居なくなると、再び、室内に戻って走り回りだしたのです。しかも、夕方の外遊びの時間でも室内で走り回っていたため、とうとう担任はその場にいた子どもたちを呼び集めました。そして、あらためて「部屋を走り回っていると本当に危険なこと」を真剣に伝えました。子どもたちは神妙な顔つきで頷いていました。けれども、Aくんは、こちらに向かってくる担任の姿をいち早く発見し「マズイ!怒られる」と、咄嗟に、その場を立ち去りました。おかげで担任のお叱り?を受けずに済みました。

この時期、ちょうど運動会前で、プログラム読み、初めの言葉、終わりの言葉などマイクでアナウンスする友達が順番に事務所に“呼び出されて”練習をしていました。この日の夕方も順番に何人もの友達が事務所にやって来て練習をしていました。ここでAくんは、ドキッとします。 年長クラスの友達が次々に呼び出される様子を見ていて「きっと、さっき部屋を走っていた自分たちが順番に呼び出されて、あの園長先生に叱られているんだ」と思いこんだのです。『園長先生にまで呼び出されるようないけないことをしちゃったんだ。なのに、自分は逃げてしまった。噓をついたり、悪いことをしたら、地獄に落ちるって、そういえば、友達が言ってた(年長クラスでは“怖い話”が流行っています)。どうしよ。どうしよ。どうしよ。どうしよ。どうしよう・・・・』。その時、Aくんは心の中でそんな叫び声をあげていたと推測されます。

その日の帰り道、Aくんのお母さんはわが子の表情がすぐれないことに気付きました。何かあったの?と尋ねようとしたら、急に大声で泣き出したそうです。そしてAくんはお母さんに自分が「いけないこと」をしたのに逃げてしまったことを正直に話したそうです。お母さんは「では明日、担任の先生にちゃんとお話ししよう」と言ってAくんを諭しました。そして、一夜明けたこの日の朝、担任の先生に正直に話をするには勇気がいります。どきどきし、その重圧に耐えかねたのか、Aくんは玄関で泣いてしまった‥‥・・。というのが『とある出来事』の内容です。

 

“怖い”の気持ちがあたえてくれるもの

その後、Aくんは、お母さんと離れ、事務所で担任と2人になって話をしました。その時、味わった安堵感とその前日、前夜の恐怖や苦悩の落差は、計り知れないほど大きいと思います。

子ども時代、このような経験は誰にでもあるはずです。O先生も、年長クラスの頃、友達の家に遊びに行って、友達の家の玩具のミニカーをこっそりポケットに忍ばせて持って帰り、親に「どうしてその玩具を持っているの?」と聞かれ「プレゼントしてもらったの!」と、咄嗟に嘘をついてしまい、動揺した表情に「神様は見ているんだよ」と言われ、相手のお家に電話をかけて事実を確かめる母親の姿に「どうしよ。どうしよう」とハラハラしながら聞き、その後、ひどく叱られたのを今でも鮮明に覚えているとのことです。その経験が、今の“誠実さ”を育んだのでしょう。

今、年長児クラスでは、「小学校の七不思議」のようなちょっと怖いけど、興味を持たずにはいられない話が流行っています。そのおかげ?で、Aくんは、自分の非に対して後悔の念を抱くことができたのかもしれません(その背景にはしっかりした親子関係が在ったと思います)。いつの時代にも「怖い話」はあります。「トイレの花子さん」のようなただ怖いだけでなく「悪いことをしたら地獄に落ちる」「うそをついたらエンマさんに舌をぬかれる」など、“教育的な怖い話”は、童話や昔話とならんで、古今東西、すたれることはありません。

大人は現実の恐怖とフィクションのなかの恐怖を(たぶん)区別できますが、子どもたちは、空想の世界と現実が混ざり合うことがよくあります。なので、自分の「願い」が「ウソ」として言葉になったり、「していけないこと」を平気でしたり、逆に、「イタズラ」や「いけないこと」をした後で、大きな恐怖感(罪悪感)に苦しんだりします。外界に対する畏怖の念や宇宙に漂う大いなる存在を感じ取り、恐れ、慄く経験を通して、正直さ、素直さ、誠実さ、正義を会得していくと考えられます。ですから、幼少期に「いけないこと」を何度もやらかして、適度に叱られて、罪悪感や後悔の念に苛まれることで、社会性の芽が育つと思います。ず~と“おりこうさん”でいると、やがて良い子でいられず、ある時、様々な形で爆発する危険性を秘めています。親も社会全体も、子どもに“おりこうさん”であることを求め過ぎない方が良いと考えます。

私にとって、怖いのは、いま、世界のあちこちで起きている事象です。今まで維持できていた秩序が崩れ出した感があります。私たちの多くは、世界中に広がる混迷や殺戮をわが事として受けとめづらいと思います。けれども地震は違います。実際、災害を体験し“怖い話”として見聞きしている私たちは災害時には協力と協調の精神を発揮します。今現在、多くの自治体が地震に備えた避難訓練を展開しています。こんな国、他にあるでしょうか。そして今、世界中で起きている様々な惨事に遭った人たちの惨状や心境に、胸を痛める感受性を磨くためにも、この時期、数多くの“怖い話”に怖くない素振りをしたり、「いけないこと」をして、しっかり叱られたり、多種多様な“怖い思い”を経験することも大切だと感じます。 【資料提供:太田亜希】