種の会からのお知らせ

週刊メッセージ“ユナタン”29

ユナタン:29≫  in  種の会

 ~ 「まとも」 と 「ふつう」 を考える ~

                           平成29年1月11日  片山喜章(理事長)

新年を迎えると、誰もが、一旦、立ち止まって、自分自身の生き方や仕事の目標、社会や世界のあり方まで 「今年の抱負」 として心を込めて頭に描くだろうと思います。けれども現実は、個人の夢や願望が“グローバリーゼーション”という止めようのない“世界潮流”に押し流されて変形していくように思えます。

同時に昼夜を問わず流れ込む大量の「情報」によって、世界規模で、一国において、一組織、一個人においても、“光と闇の斑模様”がより鮮明に縁取られてきた、そんな感覚を抱く2017年の幕開けです。

 

昨年、関東のある保育園のお餅つき大会で食中毒が発生しました。すると、その園を所轄する行政はいち早く各園に「つきたての餅は食べずに市販の物を食べさせる」ように、おふれを出しました。奇妙な話ですが多くの園が仕方なしにその指示に従いました。これって「まとも」でしょうか? 極端です、よね。

この食中毒によって、どれだけの数の子どもにどれほどの重篤な症状が出たのか、その情報は定かでなく、原因解明の前に、まずは、ついたお餅は食べないという極端な思考が優位に扱われ(お餅つき大会を中止する園もありました)、それが善後策として決定されたことに強い違和感を抱きました。

 

子どもの一生における健康を考えるなら、ほんとうに回避すべきリスクとある程度、必要なリスクを識別する判断力が必要だと思います。幼少期、バイ菌や雑菌等に触れて慣れて、いくつかの病気をしながら強くなる(小児科医の見解)、小さなケガをくりかえしながら自分の体を守る術を体得する等、かつては、それが“まとも”な考え方で一般的でした。奇妙な話は、専門分野にも及びます。例えば、生れてくる子のアレルギー予防策として、母親は妊娠中や授乳期に食物アレルゲンを摂取しないという情報が世界中に広がり(グローバリズムの力)、勧告もなされました。しかし事態は真逆でした。きちんと順守した母親により多くのアレルギーを持つ子が生れ、昨今、「母親はアレルゲンを含む食生活をしている方が良い」というデータが学会誌に発表され方針転換がなされました。まともって何でしょうね。 (『NHKスペシャル』より)

 

家庭やレストランでは、サラダなどの生野菜を食べられますが、園の調理室では、すべての野菜を茹でる、トマトさえスチコンで熱を通す、そこは行政監査で指導される、これが実態です。今日の食中毒の最大の防御策ですよ!と諭されると否定はできません。保育関係者は、もう慣れっこになった日常の姿ですが、どこか奇妙です。防御=排除という思考を続ける限り、このような傾向は強まり、常態化します。

確かに今日の時点では何も起こらないかもしれません。しかし、私たちは、ヒト本来の“生きる力”を、明日を担う子どもたちからどんどん奪っていることへの罪悪感に苛まれます。行政指導やマスコミの論調や世論の傾向に葛藤を覚えます。そんな時、一旦、立ち止まって「まともな事」「ふつうの状態」を考えてみると、新しいアイデアに出会うことがあります。今年は、各園、どんな出会いがあるのか、楽しみです。

新年早々、小難しい話題ですが保育の話です。子どもたちは葛藤経験によって、思考力や判断力を磨きます(逆に過干渉は鈍化させます)。私たち保育者集団も常に子どものあるがままの姿を凝視しながら、“手持ちのあるべき論”と重ね合わせて葛藤し、そこから創意を捻出し新たに保育内容に反映させる、それが「ふつう」の仕事の仕方であり、「まとも」な保育の大道ではないかと思い至っています。

保育内容の核になる子ども観や保育観は変えない、変えてはならない!と言われますが、私たちは、時代の変化に応じて、変えることが「ふつうの保育」であると捉えています。

 

例えば、昔から今に至るまで、マーチングといわれる鼓隊や鼓笛隊が保護者の大きな評判を得て保育に取り入れる幼稚園、保育園がありました。そこには厳しい練習があり、その厳しさが教育であると考えるグループとマーチングなど、もっての他である!と唱えるグループ(特に公立園)に大別されていました。

その当時から現在に至るまで、肯定か、否定か、というまともではない極論戦が繰り返されています。昔、私は否定派でしたが、年々、不毛な議論をしている事に気づき、今は、良し悪し論ではなくて、指導者の願いの強さや子どもたちとの信頼関係、さらに幼児向けの《練習方法》の内容を関連させて判断し、評価します(当法人のバルーンや組体操の練習方法はその典型)。また練習の頻度や1日の中でどれくらいの時間、練習をするのか、その実態から良し悪しを考えるようになりました。10分以内の特訓なら毎日しても毒より効能は大きく、法人のお家芸の《1歳児の毎日サーキット》は最良の指導方法で、多彩な動きを経験させるために、その時間は全員に対してウロウロしないように促し、コースを巡回するように誘導します

 

昨今、人気を博しだした「幼児英語」も20年くらい前は、「日本語もマトモに話せない幼児に英語なんて、どうかしている!」という考え方が多数派を占め、専門家からも「概念形成がしっかり出来上がっていない幼児期から、英語教育は好ましくない!」と自信満々の「見解」が出されていました。しかし表面ページの“アレルギー対策”同様、「専門的見解」は、その時代の推論でしかなく“最新の研究”によって真逆になるケースがよくあります。(昔、強打して頭にタンコブができると子どもは、大人に一様に患部を強く揉まれ、その痛みは倍増しました。その処方は良くないことが判明し、今は冷やすのが常識になりました)。

実際に自分が英語教室を体験してみると、レッスン方法にもよりますが、プラス面が多いと実感します。単純にエイゴを学ぶというより、思考の幅やセンスを広げているように感じます。小学校でも英語が導入される社会的背景や“時代の後押し”が目には見えない力として、はたらいているように思えます。

 

というように、是か、非か、感覚的に○×議論をする前に、その背景にある現実に目を向ける重要性を感じます。EUにおいて、シリア難民を受け入れるのか、自国民の利益を優先し難民を排除すべきか、これも○×論議のぶつかり合いで「まとも」な議論に至りません。米露の覇権的利己主義の結果、シリアから難民が生み出されている現実に対して、世界は、強い抗議のムーブメントを起こすべきなのに、各国はどちらかを支持し、その結果、ポピュリズムを培養しています。究極のところ、貴方自身と隣人のお付き合いの仕方の問題であると考えるのが、「ふつうの人のまともな思考」だと思うのですが、いかがでしょう…。