ユナタン
週刊メッセージ“ユナタンDX-1”32
2017年10月24日 火曜日
〔ユナタンDX-1〕 №32
ニッポンの〔いま〕のなかで保育する、ということ ➀
平成29年10月24日 片山喜章(理事長)
今年3月で一旦休刊していました《ユナタン》を〔ユナタンDX〕として再刊します。予想外に多くの方から再刊を求めるお声をいただきました。(3月まで第2、第4火曜日。1月は第3)
各園各様に子ども本来の力が発揮されるような保育を実践して不確定な〔いま〕と『これから』を生き抜いてほしいと願っています。かなり困難なミッションです。国は「保育指針」や「こども園要領」を改定し、有識者は「小学校との接続」を含めて解説しますが、現場の状況とマッチしない文言が並び、隔世の感があります。蛸壺化が一層すすんできた実感を味わうきょうこの頃です。
当然ですが、各園の個々の保育者のセンスにはムラがあり、力量もマチマチです。しかし〔運動会で現れ出た数々の姿〕をご覧になって、私たちが大事にしている保育や子ども像をご理解していただけたと思います。凛々しさとか逞しさとか、そんな抽象的なものではなくて、どの園も“子ども本来の等身大のパワー”をお披露目できたのではないか、と自負するところです。
一列に並んで行進する子どもの心の内には何が在るでしょう。家族を含めた大勢の観客に見られる面映ゆい愉悦感は、ふだんの自分とは違う“社会の中の自分”を強く意識する経験にちがいないと推察します。しかしこの姿を「一列に並ばせるのはやらせ」「自由に集まれば良い」と揶揄する“インテリ”がニッポンには多くいます。その対極に手を頭の上まで大きく振り上げて歩かせる生粋の“やらせ主義者”も同居しています。この2つの“蛸壺”を打ち壊しながら双方に含まれる良質のエキスだけを創意で抽出しブレンドするのが「種の会」の思考と実践のスタンスです。
3歳児、4歳児でも、本番、ぐずってしまう子がいます。その子が他園の子か自園の子か、他のクラスか自分のクラスか、我が子であるか無いか、その子との関係性によって、大人の評価は変わります。となると、私たちが大事に考える「子ども理解」とは、曖昧さを抱えることになります。
「情けないけど来年に期待」「よく走ってくれて安心した」と大人は結果に自身の感情を織り交ぜて子どもを理解=評価します。結果ではなくてその子のその瞬間の気持ちは?…と内面に分け入って思いやるのは意外に難しいものです。“親の姿を見て辛くなるのは、感受性が豊か!”とあるがままの姿を(あえて)肯定的に受けとめたとき、その子に格別の成長エネルギーが注入されると信じます。もしも社会全体がこのような肯定的な思考をするなら、溢れる物と錯綜する大量の情報にふりまわされる〔いま〕の中にいる子どもたちの『これから』に光がさすことでしょう。
念押しです。的確に評価をすることからその子への教育が始まると疑わない現代において、その大前提として個々の子の内面に分け入って気持ちを理解し共感しようと努める親や保育者の“態度”が、その子がその子らしく成長する最良の“手立て”になる! 同時にこのムーブメントは、社会全体を成熟させてこの分断社会を乗り越えるエネルギーになる。そんなふうに私は思考します。
4歳児のバルーンと5歳児の組体操もまた、自他ともに認める“カタヤマメソッド”です。
バルーンの練習の第一歩は「楽曲にあわせて演じる先生の振り付け動画」を何度か見ることです。その後、バルーンに触れて遊んでいる時に、突然、楽曲を流してみます。ふざけていた子も驚いたように遊びをやめて演じ始めます。大人が全然関わらなくても、ほぼ完璧の出来栄え。それ以上に自発的に演じる子どもの姿に大人が驚きます。自分たちが演じた動画を見ながら話し合い、話し合った事を活かしてまた再演する。演じた後で子どもだけで話し合う。このくりかえしの中でスキルも話し合いの質も高まります。この高まる過程を「主体性の度合い」として私たちは評価します。
個々の子と子ども集団にとって「練習」=「苦痛(やらされている感)」はなくて「協同性」の表出です。論より、当日の子どもたちの姿から、確実に感じ取っていただけたと思います。
現在、7園中、5園が公立から民営化された園です。民営化1年目の予行を数名の保護者が見学された時の事です。2つのバルーンを移動する際、1人の女児が、方向がわからなくなって立ち尽くしていました。私たちは見守ります。すると同じグループの男の子が走って来て、その子の手を引いて自分たちのバルーンの方に連れて行きました。感動の場面でした。しかし予行の後、観覧した保護者から「なぜ、迷っている子を先生は導いてやらなかったのか」とクレームが入りました。私たちとは真逆の保育観≒子ども理解です。しかしこの保育観や子ども理解が、日本の〔いま〕の多数派です。そこで、バルーン演技自体をインテリは「やらせ」と非難します。しかし個々の子の内面も学びの質も全く違います。私たちの保育は、一見、一斉のやらせ練習の成果のように見える形のなかに、インテリがこだわる主体性のエキスを創意で抽出し、ブレンドしているのです。
5歳児の組体操も、「形」と「順番」を子どもたちとともに決めた後は、どこに位置し、誰と組んで、どの役割(下になるか上に乗るか)を担うか、本番も子どもたちに委ねます。練習中、上になるのは僕だ、私だ、とよく揉めます。数多く揉めて葛藤し納得したりできなかったり、様々な気持ちを味わいながら、「形」を作りきる経験が大事です。本番、何としても自分たちでやり切ろうとする姿が見て取れました。その前提には話し合いの文化、何かにつけて話し合って決める園文化、園生活が必要です。今後、保育者が話し合い、その総意で運営する園づくりをめざします。
1つの園で来賓の方々が涙する場面がありました。子どもたちの凛々しい姿にではありません。3段タワーでなかなか1番上に上がれない子が居ました。フィニッシュ間近、中段に居た子が咄嗟に降りて、その子と位置を代わり自分が1番上にあがってフィニッシュ!4秒の早変わりでした。
さらにもう1つ。一番上にあがりきれず、そのままフィニッシュした女児が悔しくて涙を流しました。即、横一列に5人がくっついて正面を向いた時、隣に居た子が腕を後ろにまわして涙をこらえる子の背中を懸命にさすっていました。正面のお客さんには全く見えません。感激を届けた子どもたちは、普段、ぶつかり合ったり悪態をついたり、いわゆるふつうの〔いま〕の子どもです。
別の園では、当日、体のデッカイ子が小さな子と組もうとした時、自分が組んでいた子と離れて交替する姿がありました。さらに後半、子どもたちが、互いに指示し合いながらやりきった姿に多くの方々から称賛の声を頂きました。そこは、かつて、バルーンでクレームがあった園でした。
週刊メッセージ“ユナタンDX-2”33
2017年11月14日 火曜日
〔ユナタンDX-2〕 №33
ニッポンの〔いま〕のなかで保育する、ということ ②
平成29年11月14日 片山喜章(理事長)
新緑や草花が芽吹く春よりも、中秋から晩秋にかけての方が身も心も深く自然に溶けこんだ気がします。春は何となく開けっぴろげな感じで気だるさに包まれますが、冷気を含んだ秋の風に肌を撫でられると自然と共生している感覚がめざめ郷愁を覚えます。日本に住むことの幸せの1つです。
この時期、各園の保育も秋の自然を強く意識した内容が多く取り入れられて充実期を迎えます。
10月16日、「子どもと草木や草花」「園庭の緑化の意義と方法」「人間と自然」を考える研修会が夕刻のはっとこども園(神戸)でありました。関西各園の園長はじめ多くの職員が参加しました。研修会で学んだことが果たしてどの程度リアルなのか、研修終了後、試しに夜のはっとこども園の園庭に研修会で使ったたくさんの雑草、雑木をまき散らして帰りました。
さて翌日‥‥予想をはるかに超えて大賑わいする子どもたちの姿に保育者は笑い転げて驚きを現わしました。都会に住む私たちは、自然とふれ合うことがとても大切であるとわかっていても、園外保育によく出かけていても、子どもたちが植物好きであると知っていても、その欲求の強さ、その切実感において子どもとおなじように共感できているかと問われれば、怪しくなります。
ニッポンの〔いま〕において、幼少期に自然とふれ合う経験はとても大事だと認識されていますが、その意義や重要性について詳細に語られているわけではありません。法人各園の園庭の雑草はあたりまえのように抜き取られて廃棄される運命にあり、お花は匂いをと観賞用に植えられプランターで植物をお世話しても花びらをちぎって遊ぶことは“イケナイ”とされるのが実情です。
研修会の翌日(10月17日)、園庭には前夜、撒き散らした草木がいっぱいありました。そこで、子どもたちは、角砂糖に群がる蟻のように、フを投げ入れると大騒ぎしながらお口をパクパク開ける池の鯉のように2歳児から5歳児まで年齢を問わず草木に憑りつかれたように遊びだしました。葉っぱで人の顔を作ったり茎や木の実がおままごとのご馳走になったり枝を蒐集したりスゴーイ生け花をこしらえたり“こんな園庭遊び見た事ない”と自嘲するありさまでした。園庭のあり方を根っこから考えさせられると同時に“子どもと自然”について深く再考させられました。
おそらく植物たちは、大人が気づかない魅力と魔力を駆使して子どもを誘っているのだろうと思われます。その色と形、ギュギュッと押しつぶした時に手指に伝わる感触と匂いや臭い、口に含んで味わう強烈な苦みや雑味等、不快なところが一層、魅力的で惹きつけられるのかもしれません。
春先のダンゴムシやザリガニ、夏の終わりのセミの脱け殻を手にするのと同じように草花、草木を触りまくる日常経験の必要性。そこを意識して『これからの保育』を画していきたいと参加者は一様に感じ取りました。そう考えると各園各様に園庭の定義から考え直す必要があります。園庭=グランドという従来の固定概念を引っこ抜いて、新たな考え方を植えていきたいと思います。
もともと幼稚園はキンダーガーデン=子どもの庭ですから、日常的に葉っぱや木の実、花びら、石ころなど、身近な自然の中で遊ぶことがしぜんな幼児教育でした。植物によって五感を刺激されることはヒトの根源的な欲求の1つかもしれません。その欲求に応える“環境づくり”にもっと力を注ごうと思います。「人間は自然の一部である」という知識を「子どもは自然の側に居る」という認識に置き換えて実践しようと、まさに〔いま〕、各園、各様に思い巡らせているところです。
私自身は経済学部出身だったこともあり、保育の世界のタコツボ化を避けたいと願っています。ニッポンに限らず、世界は幸福の尺度を経済で測る経済至上主義の絶頂期にあります。人権意識や民主主義思想が膨らむ一方でパナマ文書、パラダイス文書などお金持ちの貪欲さは半端ではなく、環境破壊と軍拡競争はだれにも止められず着実にすすんでいます。今回のトランプ大統領のアジア訪問も武器の売り込みの側面が強烈に吹き出しました。こんなセカイの〔いま〕に目をやると保育や教育の意味も価値もわからなくなり無気力に陥ってしまいそうになります。けれども玩具や教具ではない自然の草木、草花で必死に遊び込む子どもたちの姿に一抹の希望を見出します。
もしも、来る日も来る日も自然物にまみれて、時には綺麗な花をちぎったり、全身泥だらけになったり、人類が自然の一部であることを実感できる経験を重ねるなら、将来、経済至上主義の思考から抜け出せるかもしれない、と淡いけれどもしぜんな期待を抱いています。たとえ、各園の園庭が草木、草花でいっぱいになっても、その背景や教育的趣旨をご理解いただきたいと願います。
~ カタヤマメソッドについて ~
前回のユナタンDX-1で“カタヤマメソッド”と記したところ、また、ある園の運動会の園長挨拶で“カタヤマメソッド”と言ったところ『それって初耳!』という声がいくつか寄せられました。
1)運動会を観客(保護者)に見ていただくイベントとして位置付ける(間をあけない事、1つ1つの種目が長くならない事。見ていただく内容が練習過程で育まれた子どもたちのやりきる力である事=バルーンや組体操、競技種目においても誰とでもその場で工夫して力を合わせようとする姿である事)。
2)本番、できる限りその子本来の力が表現できるように配慮する(かけっこを5歳児からする意味は、その姿を待機する4歳児、3歳児、2歳児が見てイメージを持てるように。特に2歳児は5歳児、4歳児、3歳児の走る姿を見るように促されて興味をもってイメージを抱いて自分たちの出番を向える)。
3)親子競技は、親の力発揮をテコにして他の子ども(他の親)とのふれ合いをねらいます(子ども運び)
4)保護者競技は、スキルを低くして親同士のふれあいにする(創作の大繩くぐりグッパー)。
5)競技の練習過程は「短時間」「小グループ」「エンドレス」でいろんな友達といろんな競技内容を短時間で何度も繰り返す(エンドレストラックリレー等、子どもの基本的欲求に合致)。
6)組体操やバルーンは自分たちが練習した内容を自分たちでVTRを見て自己評価の話し合いをする。そのくりかえしで、子ども自身の力で課題を語り合い改善をめざす。= これが本来の幼児教育、集団の力。ローカルガバナンスです。
とまあ、ざっとこんなかんじです。
週刊メッセージ“ユナタンDX-3”34
2017年11月28日 火曜日
〔ユナタンDX-3〕 №34
ニッポンの〔いま〕のなかで保育する、ということ ③
平成29年11月28日 片山喜章(理事長)
11月11日(土)、大阪府藤井寺市の法人施設「ななこども園」で《公開研究会》がありました。この園では『話し合いの保育』と『1歳児からのグループ活動・当番活動』をガチに園生活の中心に据えています。ここでプレゼンされた実践とエピソードを聞いて「3歳児の育ち」と「規範意識」そして、ニッポンの〔いま〕と「これから」の保育について深く考えさせられました。
この園では、1歳児から1テーブル3人1組のグループがあります。今回は、3歳児のグループの給食当番において、土日を挟んで6日間にまたがる話し合いの物語がありました。保育の中心に“話し合い”を据えるのは大事です。しかし、日々の決まった当番活動を3歳児どうしが話し合うってどういう事なのか、あまりイメージが持てないと思います。私自身、この園のグループ単位の当番活動を日頃から高く評価しながらも、何でもかんでも(幼い)子どもに尋ね、逐一子どもどうしで話し合いをさせて決めていく保育の進め方を“偏り過ぎかな”と感じることもありました。
3歳児クラスは5人1組のグループです。毎日、同じテーブルに座ります。給食の配膳や盛り付けをグループ内のメンバーが輪番に行います。当番表は、日めくり式の写真付きカードです。
5歳児なら、毎日くりかえされ、滅多にトラブルは起きません。けれども、3歳児になってから開始された日々の当番活動において「毎日したい」など、色々わがままを言う子も出てきます。
ふつう、オトウバンは?お当番!なので、特に話し合って決めることもなく、1人の子が続けてするのは認められるはずがありません。ルールを知る=社会性を会得するチャンスと考えます。
しかし、ここでは1人の子が「続けてやりたい!」と主張すれば、先生は「みんなどうする?」とグループのメンバーに尋ねます。もしも、1人の子のわがままに「いいよ」と仲間が答えれば、その子はいつでも当番が出来て、先生は異論を唱えず是認するという日常です。私たちは反射的に「そッら~あかんやろ⤴」と考えます。果たして、どうだったのでしょう。ここではSグループの朝の話し合いの様子が、子どもの言葉1つ1つを取り出しながら、つぶさに報告されました。
10月27日(金)、各グループの前日の当番が前に出て1人ずつ「今日の○○グループのお当番は××です」とカードをめくって知らせます。正広たち5人のグループがカードをめくると“慎吾”の写真が出てきました。しかしその日、慎吾は欠席でした。担任は「どうしよう?」とSグループのメンバーに尋ねました。すると正広が「ぼくがする!」と主張します。即座に拓哉は「慎吾のカードをめくったら慎吾が可哀そう」と反論します。他の仲間もそれに続きます。正広は仲間におされた気味で「ぼく我慢する。当番表をめくりたかっただけや」と自分の主張を取り下げ、その日は“慎吾の代わりに全員でお当番しよう”と次々に言い出して、各自、自分で給仕することになりました。“!と?”の空気が混ざる感じです。しかし翌31日もまた慎吾はお休みしたのです……。
10月30日(月)。「今日も慎吾の代わりにみんなでしようか」という拓哉の提案に剛と吾郎は追認し、正広は「嫌だ!自分がする」と言い張ります。正広はカードをめくって「慎吾が登園したらまた慎吾に戻せばよい(次は正広)」としきりに訴えます。慎吾が登園したとき、ふたたび慎吾に戻す約束で全員が納得し、正広はカードをめくって自分の写真が出て来たので、その日、当番をしたのでした。ここでのやりとりは、不思議に道理が通っていました。躊躇なく主張し合うメンバーの姿と相手を説得しようとする言葉に感動しました。
そして、10月31日(火)、久々に慎吾が登園しました。朝の集いで前に出て来た正広は、当番カードを逆に戻して「○○グループの今日のお当番は慎吾です」と全体に知らせました(Good!)。慎吾は、この間の出来事がよくわからず「えっ今日、僕で、いいの?」と尋ね、メンバーは一斉に声をそろえてOKしました。
大人が決めつけず、このような任された話し合いを対等に重ねるうちに子どもの思考は深まるようで、子どもは、子どもの影響をより強く大きく受けて発達していくのだと実感しました。
翌11月1日(水)、朝の集まりでは、前日、お当番をした慎吾が当番カードをめくります。すると正広の顔写真が現れて「今日の○○グループのお当番は正広です」と慎吾は言いました。すかさず拓哉が「違う!」と声を荒げ、正広は「なんであかんの?」と詰め寄ります。拓哉は『だってこの前は、正広、一回、お当番したやろ? それで慎吾が昨日して、また今日、正広がするのは2回になるから嫌やー(原文のまま)』と応戦し、しばらく“必死のパッチ”の主張合戦が続きます。
【気遣いのない自己主張の応酬は、互いの思考力を鍛え、精神を研き、理解を促し、自己主張の中味を成長させ、譲歩の気持ちを呼び起こし、結局、仲間意識を育む】と確信しました。〔いま〕のニッポンに必要なのは、気遣いのない自己主張の応酬です。私たちが見習いたい姿でした。
拓哉は「正広の次は拓哉、今日は自分が当番」だと主張します。言い合うたびに正広は徐々に理解を深めていきました。剛も吾郎も理解が進みます。その日、慎吾がめくったカードに正広が出たけど、ほんとうは正広を飛ばして拓哉になるはず。そこで正広に「もう一回、カードめくってはどう?」と剛も吾郎もやさしい物言いで話しかけました。この寄り添うムードが正広の理解を促し、とうとう正広は(照れ隠しなのか)「みんな目をつむって」と言い出し、みんなが目を瞑っている間にさっとカードをめくりました。そこには、拓哉の姿が写真になって「拓哉がお当番ですよ」というメッセージが伝わってSグループみんながほんとうの納得に至ったようです。
《研究会》の中で出た1歳児クラスの話です。食前にエプロンをする際、1人の子が裏向けに着けかけた時、近くの子が“違う”と気づいて助けようとしました。微笑ましい姿です。しかし、その子は“ジブンでする!”と主張して助けを拒否します。にもかかわらずその子は手助けしようとします。(双方の気持ちはわかります)。その時、全く別のところから第三の子がやって来て両者の間に分け入って「手助け無用。自分でしたがってるんだからやめなさい」と言わんばかりに手助けする子をメヂカラと両手で遠ざけたのです。これ! 1歳児の姿です。ここからの洞察、重要です!
〔いま〕のニッポン、総理大臣も有識者もマスコミも保育界でさえも、上記のような素朴な事実にアプローチが及びません。どうしてでしょう。 次回(12月12日)、自己主張いたします。
週刊メッセージ“ユナタンDX-4”35
2017年12月12日 火曜日
〔ユナタンDX-4〕 №35
ニッポンの〔いま〕のなかで保育する、ということ ④
対話を超えて対論する感覚へ:子どもの姿から習う
平成29年12月12日 片山喜章(理事長)
前回(11月28日)、「乳幼児はスゴイ!」と3歳児と1歳児の2つの例を引いて述べました。
3歳児5人が1つのグループで生活し保育者が意図的に話し合いの場を設定すると、0歳1歳からずっと園生活をともにしていることもあって、子どもは自分の思いを言葉で表現する力が研かれるのだと思います。音楽、体育、造形などのアクティビティと対になる関係性のテーマです。
大人社会も相手との相性や上下の関係にとらわれないで、自分の主張は主張し、相手の意見は意見として傾聴し合い互いの「考え方」を認め合う度量がほしいと思うときがあります。
子どもどうしが意見をしっかり出し合う姿を見ていると、それぞれが、それぞれにルールや社会規範を意識している様子がうかがえます、そこがスゴイ! 相手の考えを理解しようとする態度は思いやりにつながり、そんな日常をくり返すと“ありのままの自分”と“社会性”が重なり大人に指導されなくても、子ども自身、感得しながら“両者”が交わり合うと考えて保育したいです。
保育以外の世界で暮す圧倒的多くの父母たちは、我が子がすくすく育つ乳幼児期の姿に接しているにも関わらず、一般的な意味での乳幼児という存在に対しては、さほどスゴイと感じていないかもしれません(※わが子のスゴサや可愛さはご存知です)。なぜなら、それは家族の中で見せる我が子の姿と、家庭を離れて集団で生活するその子の姿がずいぶん異なるからだ、と考えます。
乳児から集団保育を受けることで育つ部分が確かにあると言えます。それだけに保育内容をよく吟味し、長時間保育制度については欧州を見習って社会全体で考える必要があると思います。
園生活において、2歳児、1歳児、0歳児の子どもが互いに影響し合って家庭保育では望めない“特別な学び”をしていることを現場にいる多くの保育者たちは目撃しています。しかしながら、現状は、乳幼児の保育が「子育て支援策」と銘打たれ、「就労支援策」⇒「保育園の数的確保」⇒「そのための職員の処遇改善」という思考パターンが為政者やマスコミなど一般的に広く流布しています。「幼児教育無償化」も幼稚園の制度に則って「3歳児」以上が「教育」の対象です。まだまだ社会は、乳幼児保育が教育であり、子どもという存在を理解しているとはいえません。
となれば、私たち保育者は社会の先頭に立って、(超低金利時代の)現代を俯瞰しながら、優れた知見を手元に手繰り寄せ、保育を見える化して実践し、社会に発信することが求められます。
それは、大きな役割(使命)です。とても大きな楽しみでもあります。保育の世界では、最近、ようやく、「子どもは子どもどうしの関係性によって育つ」ことが語られはじめました。しかし、保育環境の整え方や保育者の多岐にわたる専門性については、まだまだ、これから、です。
保育と幼児教育について、保護者のみなさんは、どうお考えでしょう? 体罰是認や押しつけの躾が伝統的な誤謬として今尚、存在します。保育界以外からみたとき「保育の専門性」がどのように映るか気がかりです。保育はその国の文化の現れでもありますから、みなさんも実践者です。
《今日のようす》《お知らせ》《おたより》には、「今日は…をたのしみました」「よくがんばりました」「きらきら・のびのび・いきいき」等、なんにも言い返せない情緒(ジョウチョ)的な文言や表現がひらひら舞っていませんか ⇒ これ、保育界にいる私たちの仕事文化の現状です…。
子どもが「子どもどうしの関わり合いの中で育つ」なら、大人は「大人どうしの関わり合いの中で育つ」でしょうか。それはさておき、保育者は、子どもどうしが関わり合う場面を設定して、その姿を謙虚に観察する。すると“何かしら大切な事”を学び取ります。その保育者どうしが上手に関わり合えたなら、保育者のスキルもマインドも専門性も社会性も研かれるはずです。それがまた子どもへの関わりに還り好循環を生み出します。そんな園、法人、保育界にしたいです。
保育という仕事は、分業と協業で成り立っています。クラス担任も学校や幼稚園と違って、午前10時、11時に出勤したり、午後4時に退勤たりします。ローテーション勤務ですからフリー保育士やパートさんとの連携が肝になります。ということは、自ずと園内での「話し合いの質と量」がKEYになり、今後、最優先で総力をあげて取り組んでいく決意です。保育者どうしの話し合いや会議は、子どものうわべの姿や事象が列挙され、井戸端化し、子どもの姿や保育の意味を問う思考が抜け落ちてしまい、視点や論点が霞む事があります。そして、議論すると感情対立に至るケースも見られます。ニッポン人の苦手な分野かも知れません。子どもどうしは、話し合い(議論)によって思考力が鍛えられると述べました。私たち大人も感情対立や気まずさを排して議論の質をうんと高めることで結果的に思考が高まり、ほんとうの意味での文化水準を高めたいです、ね。
対話というより対論する術と習慣を管理職と保育士、保育者どうし、そして保護者との間にでも作り出すことをめざします。伝統的な上意下達、忖度、気遣いの文化を改めて、自分の考え方や意見を率直に出し合っても気まずさや感情対立にならない、そんな社会の創造です。
国防の名の下に軍事(攻撃)費が増やされ威嚇合戦し、超低金利時代の変革期に経済成長戦略を策す。それが次世代を育む思考であるとは思えません。今、大人が取り掛かれる次世代へのプレゼントは《大事なことをよく考えて話し合う“かつてない関係づくり改革”》です。まずは自法人の保育と運営において「話し合いの保育」や「職員参画型の運営」を志向し試行しようと思います。
こんなふうに主張すると眉を顰める人たちがいます。ドン引きする種の会のセンセイがいるかも知れません。しかし各園各様に「コーナー・ゾーンづくり」「クッキングプロジェクト」「グループづくり」「誕生会プロジェクト」、発表会に向けて担任外保育者による「グループアプローチ」など、子どもが考えて気づき、気づきを話し合って対論に至る保育をふつうに展開しています。子どもの手本ではなくて、子どもを手本にした大人どうしの新しい関係性の構築が期待できます。
週刊メッセージ“ユナタンDX-5”36
2017年12月26日 火曜日
〔ユナタンDX-5〕 №36
「クリスマス」をテーマにした保育のエピソードから
平成29年12月26日 片山喜章(理事長)
毎年、この時期になると各園各様に「クリスマス」をテーマに保育の幅が広がります。テレビを見ても、街中に出ても、家庭においても「クリスマス‥‥」「クリスマス‥‥」です。
お正月もそうですが、世の中で話題になっている事(パンダの子どもシャンシャンなど)や家庭で盛り上がっている事(家族で温泉に行った…ハワイに行くんだ、等)と園の保育で取り上げたテーマが重なった時、子どもたちは親近感を抱いて格別の意欲が湧きあがるものです。
「クリスマス」をコアワードにして連想ゲームのように思いついたことを「ホワイトボード」に書き出して、イメージを蜘蛛の巣状に広げて、話し合います。「サンタさん」⇒「ソリ」⇒「トナカイ」⇒「鈴」。「プレゼント」⇒「煙突」⇒「靴下」。「ツリー」⇒「星」⇒「飾り物」。「もみの木」⇒「雪」や「電気」など…、キラキラと子どもたちの思考が点滅します。
3歳児クラスでの子どもの会話です。『サンタさんはどこから入ってくるのかな?』『エントツじゃない?』『でもおうちにエントツないよ』『じゃあ、サンタは来ないの?』『エントツなかったら家の窓から入ってくるって!』『鍵、開けといてあげた方がいいのかな・・・』『いや、鍵がかかっても、魔法の力でプレゼントをおうちの中に届けられるんじゃない?』
そこから、『プレゼントって、靴下の中に入れてくれるねんで』『えッ、靴下くさいやん!』『じゃあ良い匂いのきれいな靴下、用意しとこうよ』『でも、私の靴下小さいけどプレゼント入るかな?』『大きい靴下を用意しようかな』。ウキウキ気分に想像力がもくもく昇ります。
4歳児クラスでは「メリークリスマスのメリーって何?」「メリーさんの羊のこと?」「ちがう、ソリ引っ張るの、トナカイやで」「トナカイも羊の仲間?」「どうかな……」。
「クリスマスってどういう意味?」「キリストの誕生日」「キリストって?」「イエスさまのこと」「イエスって“はいそうです”ってこと…?」「ちがうよ」「ちがうって“ノー”って言うね…」この時、保育者はきちんと教えるべきか、どうか迷います。が、私なら子どもたちが話疲れるまでニコニコしています。なぜなら、ある子が真剣に尋ねてきたなら応えますが、とにかくワクワク気分の現れですから、そこに講釈を垂れると水を差す気がするからです。
5歳児クラスでは、話し込んでいるうちに論点が絞られて、最終的に「クラスのみんなで園のクリスマスツリーを作りたい」という事にまとまりました。そして「どのように作るのか」と話題は発展し、そこから先は、ウキウキ、ワクワクを超えた“気合い”に変わったのでした。
その園では異年齢グループの製作活動でも「クリスマス」がテーマでした。あるグループは作りたい物で分かれました。「ツリー飾り」「クリススマ会に着る物づくり」などです。
何となく「ツリー飾り」の場所に行った3歳児のジョン。いざ開始しても黙ったまま周囲を見ているだけでした。ほんとうは特に何かをしたいということではなかったのだと思います。
隣で5歳児のポールとジョージが「こんなんどう?」「星の形になったし」と互いの作品を見せ合っていました。そのうちに「やりたい」という気持ちに火が灯ったのか、ジョンも見様見真似で作り始めました。ポールが「イイの作ってるやん」と声をかけました。年下の子に真似られることは光栄で嬉しいのかも知れません。ジョンは特に反応しませんでしたが、ぎこちなさを抱えながら必死にハサミを使って星を作っていました。ハサミを扱うスキルも上がっていきます。その表情は満足気に見えました。ポールやジョージの姿を見て、ジョンの心に“自分もやりたい”という気持ちが湧き出たのだと思います。⇒ 学習≒教育場面です。
自分が“やりたい”気持ちになり、その“やりたい気持ちを叶える”ためにハサミを使い、結果“スキル”があがる。これが学習=教育の原点であるべきだと思います。当事者の“やりたい”“やってみたい”“できるようになりたい”、その気持ちが膨らまないままハサミを扱うスキルだけをアップさせようとしても、それは学習とは言い難いのです。私たちは、小中学校で習った知識も“知りたい欲求”に関わらず「知っておくように」と教えられてきました。
“知りたい”気持ちにさせる工夫や仕掛けを施す事が学習と教育の中心になると思います。
5歳児の園のツリーづくり。ホームセンターでモミノキを買って、ダンボールを車やお家の形に切って、色を付けるジョージに「それ、ナイスアイディア」とポールが声をかけ、既成の飾り物以外に、まつぼっくり、どんぐり、新聞紙をどんどん使って、まる3日かけて、クラスのツリーを仕上げました。では彼らは何を学習したのでしょう。クラスみんなで1つのツリーを作り上げた経験が良い学習でしょうか? それぞれがハサミを器用に駆使し、絵具を使い、筆を巧みに扱うスキルを発揮したことが学習でしょうか? どちらもイエスですが‥‥。
これからの学習活動には「社会とのつながり」の視点が必要です。個々のアイデアやスキルを持ち寄って自分たちのツリーを製作した。そして、そのツリーが園のツリーとして玄関に設置され、他のクラスの仲間や保護者の方々、お客さんたちにとっても、この園のツリーとして(社会的に)存在したことが学習成果です。農業生産者は社会(消費者)を意識して品種改良に挑み、新たな農業技術を学習します。アスリートもアーティストも自己表現がそれを享受する周囲(社会)との関係を意識して学習します。その子の「やりたい」からスタートするのが学習の基本で、それを促し支える事が教育である、と理解していただきたいです。