ユナタン

週刊メッセージ“ユナタンDX-6”37

2018年1月16日 火曜日

ユナタンDX-6〕 №37

保育の中の安全・安心…

平成30年1月16日 片山喜章(理事長)

 新年早々の事でした。玄関の扉を開けると「発表会」に備えて舞台が出されていました。
毎年の光景です。しかしよく見ると舞台の端から端まで細いロープが張られてあり、所々に「入らないでね」のポップがぶら下がっていました。まあまあよくある注意喚起の目印です。

フロアと舞台の段差は40cm。キケンと言えば危険ですし、園生活の環境の一部だから禁止するほどではないと言われればそう思います。しかし毎夕、お迎えの保護者同士がフロアで立ち話をされているその周囲を子どもたちは、はしゃぎまわり舞台に上がっては降り、また上がる、その時間、そんな光景が頻繁に見られます。たまに転んで痛い目に遭う子もいるようです。

そんな事情があって、園として夕方から翌朝にかけて「立入禁止」の措置を講じたとのことでした。当然でしょうね。お迎えの時「早く帰ろう」と促しても言う事を聞かない子もいますから舞台に上がれないようにロープを張ってもらう方が助かると思う保護者の方がいるかもしれません。けれども、久々に園の玄関の扉を開けたとたん飛び込んできたその光景に強い違和感を抱いてしまいました。日中、舞台はそのままで劇や合奏のお稽古をしたりサーキットの時間は昇り降りしたり、昼食時はこの舞台のうえでもランチをします。なのに、なぜっ。

すごく気になったのですぐに管理職やそこにいたセンセイたちに理由を尋ねました。
「このじいさん、新年早々、ナニ、ゴテとーねん」と言いたげな真冬の視線を感じながら、安全対策というよりむしろ保育の話をしました。「“立入り禁止”にするのはダメでしょ」と、トップダウンする話でもないので、お昼の時間も、職員室で語り合いました。保育者が少なくなる夕方と朝の時間帯に限ってのことですから理解できます。日本全国、津々浦々、同じように考えて、同じような対策を講じる園が圧倒的多数であることも承知しています。

毎年この時期、よく慣れ親しんでいる舞台ですが、危険性をより確実に除くために今年からロープで遮ることを思いつくなら、来年は、壁際に連なる三段重ねの椅子の周りにも、さらに隅っこに立て掛けているテーブルにも、上ると危ないから囲いを作ったほうがよいと考えて、実行する気がします。その無自覚な思考の行き先には、危なそうなモノは何でも無くしてしまうことで安心する現代日本の社会観が見え隠れしていると言えます。日本中、何か事が在れば、すぐに取り除くことを検討し実施する判断に至っています。その風潮こそ閉塞感の元凶です。誰が、何が、息苦しい世の中にさせるのでしょう。みなさんはどのように考えますか。
私たちは、年々、無自覚に“子どもの安全”というよりも“自分自身の安全=保身”の側に身を置き、判断し行動するようになりました。それを是とする世論も強くなりました。
“安全”“安心”が口癖になれば社会全体は委縮します。子どもがケガをした経緯や原因、ケガの程度そしてその子が成長するうえで経験する必要性や学習した中身を吟味し洞察する営みは軽視され、即、管理責任、謝罪、賠償と誰もが考えるようになってしまいました。

一昨年、お餅つき大会で重篤ではない食中毒が発生したとき(そんなことはあることです)、「餅つきはOKだけど子どもが食べるのは市販のお餅」とある自治体の保育課長は声高らかに通達しました。従順な保育関係者は返す言葉もなく市販の餅を買いました…。
これが日本社会の現状です(欧州は違います!)。しかし、そのような考え方の延長線上に欧州の人たちが言う「アブナイ物を排除する世界一危ない日本の公園」があります。公園からシーソーさえもどんどんなくなってきました。リスク回避という名の下に存在そのものをなくしてしまいます。「リスクを減らすために創意で改良しよう」と発言しても声は届きません。

このような事象は世の中が進歩したからなのか退行なのか、とにかく窮屈になってきたことだけは確かです。ほんとうに子どもの将来を見据えて大人が果たすべきことは何でしょう。
危なそうなものは何でも取り除こうとする短絡思考を抜け出して子どもの成長にとって必要な学習経験であるかないか、そこを考えてほしいものです。危なそうな物が持つ魅力と扱い方を学習する機会を奪わないことです。ギャンブル然り、ゴルフ然り、ハザードのない人生は面白くないという生来の“人間らしさ”や処世観に立ち還りたいです。

日常生活で、1番危険なものといえば、自動車だと思います。死者の数は私の子ども時代に比べて半数以下になりましたが、それでも年間4000人台です。事故の件数や負傷者の数は何万という数字です。しかし誰も自動車を取り除こうとは言わないし考えてもみません。自動車事故に遭うリスクはとても大きいです。リスク回避のためにシートベルト、エアバックが開発され、自動運転の技術もリスク減らしの賜物です。アクシデントに出逢っても大事に至らないように工夫する日々の暮らしの生活で、より良い保育の中身についても考えたいですね。

唐突ですが「安全/安心」は人権尊重や多様性の課題と隣接しているとイメージしています。欧州の園庭では砂場ならぬ石場を設けて危険回避力を育もうとします。子どもの人権を尊重するから自分自身で危険を回避してほしいと願って経験させます。同時に欧州各地にはどの園にも移民や難民の子がたくさんいます。一見、危なそうなものを取り除こうとする日本人の知性は、見知らぬ人は排除しようとする思考につながるのではないかと案じています。

 

週刊メッセージ“ユナタンDX-7”38

2018年2月13日 火曜日

〔ユナタンDX-7〕 №38
~ ごっこ遊び 劇のお稽古 想像性の行き先 ~

平成30年2月13日  片山喜章(理事長)

発表会のお稽古を眺めていると、とても不思議に思うことがあります。どうして2歳児の子どもでも舞台にあがると普段の自分ではない劇の役柄を演じることができるのでしょう。4歳児5歳児になると厳しいお稽古でも、なぜか、投げ出さないで続けます。お稽古中に笑いも生まれます。
普段、保育室で“ごっこ遊び”や“身体表現”をするときは、嬉しそうにその役になりきる子どもたちですが、それと同じ気持ちでしょうか。ぜんぜん違うと思います。一体全体、この子たちの心の中では何が起こっているのでしょう? “人間らしさ”“子どもらしさ”という保育の根幹に関わるテーマだと思います。その辺りの解釈について、今回、私なりに考えてみました。

“ままごと”なら、昔も今も子どもの“ごっこ遊び”の定番としてどこでも見られます。新生児から人は他者の振る舞いを見て、自分の中に取り込んで、マネをする。これが学習の基本だと思われます。“ままごと”は、お家の生活を思い描き(想像)ながら、それをベースに自分なりに物語を創って表現します。遊びながら頭脳をフル回転させて、話の内容をより面白い物に創りあげようとします。思い描いたことを演じて遊ぶ(創造する)ことでさらに想像力が膨らみます。
私たちも、自分の思いや考えを相手に伝えようと対話するとき、集中して熱く語り合っていると自分でも気づかなかった新たな考え方が場の空気から引き出されます。それと同じように“ごっこ遊び”では「想像」(内面活動)と「創造」(表現活動)が相乗的に作用していると感じます。

「お母さんはお出かけしますから、お利口さんにしておくんですよ」と気取ってみたり「お散らかししてはダメでしょ!」という言葉遣いに、その子の母親の口癖が乗り移ります。真剣なやり取りをすればするほど、そばで聞いている私たちは苦笑してしまいます。想像したことを言葉や身振りで表現し合うことこそ、幼児期に最もふさわしい集団教育の姿(効果)であると考えます。

35年くらい昔、私が保父さん(保育士)時代には“イヌごっこ”なるものが流行っていました。当時の私はイヌ役になり、子どもたちから可愛がられて疲れを癒していました。子どもたちも先生(私)を可愛がって悦に浸っていました。4年ほど前、その“イヌごっこ”を発見しました。1人がイヌ役で首にひもをかけられて四つん這いで進み、もう1人の子がイヌを引いていきます。最近、縄は危険だと考えて縄跳び以外は一切、自由に使わせない園が増えています(日本的安全の課題)。
その“イヌごっこ”は、ペットのように無条件に可愛がられる役と可愛がる役=可愛がられたい願望と可愛がりたい欲求の双方が1本の縄で繋がります。微笑ましく感じるところですが、なぜ、子どもたちは“イヌごっこ”をしたがるのか、そこも興味深いところです。

人間社会は競争と協力(言い方を変えると、個の利益と集団の利益の葛藤)をくりかえして発展してきました(発展と称してよいかは疑問です)。森林伐採や油田開発などの自然破壊によって、人は社会を変え、生活を一変させました。その変遷の過程で大規模な殺戮も行なわれてきました。
ある意味、たいした理由もなく束になって友達に陰湿な振る舞いをするイジメ問題も同根のように思います。およそ理性や知性では理解できないのが現実です。これも“人間らしさ”なのかもしれません。もしかして「イジメを受けてもくじけない」「イジメには加担しない」ための備えとして優しくしたり、されたりする遊び(経験)を重ねているのかもしれません。このような遊びによって人間社会が持つ残忍さに打ち克つ耐性をつけているようにも感じます。⇒もしそうなら「生きる力」を育むには、我慢の経験ではなくて想像力を駆使した面白い遊び体験が重要になります。

「そこじゃなくて、舞台のこの線の上で!」と劇のお稽古中、担任の先生から檄が飛ぶことがあります。日本の至る所でみられる光景です。普段“めだかの学校”の先生もお稽古が佳境に入ると“すずめの学校”の先生に変身してしまいます。日頃、ゴンタな子もお稽古中は思いのほか従順になります。良し悪しは別にして、2歳児、3歳児でも、なぜ、そんなふうに我慢できるのか、ほんとうに不思議です。そこが“ごっこ遊び”と大きく違うところです。先生が怖いから頑張るとか、先生に義理立てして期待に応えようとしているとも思えない理解困難なお稽古風景です。

たぶん、園全体から湧き出る“場の力”だと思います。保育者集団の強い願いがまとまって舞台の上に“形態形成場”を生み、億千万の“気合いの素粒子”が舞台の上の登場人物たちの頭や胸を突き抜けているのだと、ホンキの本気でそう考えています。そんなに遠くない時期、心理学と量子物理学が融合して(エネルギーとしての)「意識の謎」の解明に着手すると期待しています。

子どもは空想力が豊富で変身願望が強い。故に大人の横暴や困苦に耐えられると考えていました。プリキュアとか月光仮面に変身したいという願望は成長欲求の現れですから、多少の困難は乗り越えます。しかし、劇のお稽古は、そんな単純なものではないです。その役柄を演じたいという憧れと、嫌でも演じなければならない使命感が混在しているようにも見て取れます。日常生活ではまずありえない異色の葛藤を味わっています。わくわく、もやもや、ふつふつ、はらはらの体感です。

私の経験からいえば、子どものアイデアや発想を活かそうと努めるほど、見ていただく劇としては、内容も展開もだらだらしてメリハリのないものになる可能性があります。しかし当日は、はつらつとして、親に手を振ったり、アクシデントやトラブルを笑いとばしたり、少々間違えてもお構いなしに会場を笑いに誘い込む雰囲気になります。
逆に、最初から枠にはめてピシッパシッと練習して仕上げると確かに内容も展開もしまります。しかし当日は、ピリッとうまくいくこともありますが、一旦、アクシデントやトラブル等で崩れると、もうどうにも、と・ま・ら・な・い、そんな時がありました。

法人各園では、子どもとともに作り上げる劇づくりをめざして格闘?していました。それは普段の“ごっこ遊び”と舞台の上の格別なお稽古の隔たりを埋めるチャレンジでもあります。園の保育者集団が総力(創意と総意)をあげて、1つ1つの出し物に向き合えるかどうかがポイントです。保育者1人ひとりが「自分が主役」であることを自覚して実践する協同劇でもあるのです。
みなさんの園の劇は、果たしてどんな内容、どんな雰囲気になる(だった)のでしょう。

週刊メッセージ“ユナタンDX-8”39

2018年2月27日 火曜日

〔ユナタンDX-8〕 №39
~ 「無関心」と「ひとごと感覚」がつくりだした改定指針と解説書 ~

平成30年2月27日  片山喜章(理事長)

「保育所保育指針」や「認定こども園要領」が10年ぶりにこの4月から改定されます。10年に1度の改定のたびに常々訴えているのは「文言のすばらしさ」と「埋めようのない違和感」、そのギャップです。かつては「保育実践」と「指針の文言」をマッチさせてくださいとお願いしていました。子どもを直接保育する保育者にとって実践の指針になりえていないからです。「…しなければならない」「‥することが重要である」と硬い文章で書き連ねています。「それは違う!」という反駁ではなくて「それって具体的にどういう事?」という疑問が湧き出ます。そこが苦慮する所なのにその問いには「そこはそれぞれの園で工夫してください」という回答が返ってきます。我々第一線が無関心になって当然です。
今回の改定の3年くらい前から「改定するなら過去10年、どのように活用されてきたのか、ヒアリングやリサーチが必要」といくつかの紙面で訴えてきました。賛同も得ました。が、指針は大臣告示だからそんなシロモノではないという奇妙な正論をぶつけてきます。

昨今は、諦念の境地を超えて、なぜ、保育の最前線に適さない保育指針を作成するのか、役人や御用学者の思考の構造を考えるようになりました。IQの差とEQの差でしょうか。同時に、いま、まさに(3月6日に関西でキック・オフ)、法人内で保育と運営指針(日々の保育と運営の相補性を満たすオリジナル)をつくりださんとしているところです。
いわゆる「昭和の保育」や「平成の園運営」を凌駕し止揚する園文化の創造です。追い追い、お知らせします。これまで保育界ではこんな突っ込みがされていました。
【園として、どんな子どもに育ってほしいか】
それに対して、私たちは“よく考える子ども”とか“物怖じしない子ども”を標榜してきました。では、そのためにどんな過ごし方をするのか、そこがとっても難しいのです。
ある意味、職人技です。様々な事を子どもどうしで話し合ってわくわくしながら決めていく。この単純なことさえ第一線ではなかなかできない。そんな教育を受けて来なかったからです。保育の課題は「上意下達の画一主義に未だに縛られた大人社会のあり方」と連動しています。指針がそこに言及しないのは指針自体がこの旧社会の代弁者だからです。

“よく考える子ども”も“物怖じしない子ども”も先生の提案した活動が面白くなければ「面白くない」と訴えて、やめる。となると保育者にとっては厳しいものになります。そのかわり面白ければ興味を深めて“予定外”の活動に発展する。その予定外の活動をすばらしい保育と園全体で称賛する。でなければ保育者は成長しないし、保育や教育という社会的営みが衰退します。「マジメな子」を再生産する保育は避けたいものです。こんな大切な日本の保育の方向性について、指針はまったく語らない、語れないのです。
保育界では【この保育を通してどんな力が子どもについたのか】という突っ込みがあります。この設問自体、あり得ないのですがよくなされます。子どもって一体誰でしょう。
子どもは十人十色で1つの活動や経験の受け止め方も違います。ここに日本社会の「子ども集団を個性の集合体と見ないで1つの塊と捉える集団第一主義」が見え隠れします。

しかし、保育者集団は、時により事によって、個々がどんなふうに成長したのか保育者どうしで認めることができます。この互いに認め合う行為が、より良い保育と運営の原動力になります。なのに、園の実態を知らない役人や御用学者は『保育指針』を盾に各園の園長や保育者に紋切型で物申します。実にやり切れないです。保育士たちが最前線であり管理職は第一線です。学者は後方支援部隊で諸制度の作り手である役人は後方司令室、という保育実践の構造を再構築しないと、最前線で働く保育士の意欲は衰退するでしょう。

第一線に居る管理職にも諸々の葛藤があります。先日、関西のマナー研修で髪の色の問題(issue)がでました。当然「何色でもOK。緑や紫もグッド」です。管理職は「保護者からクレームが出る」と反論します。「聞き流せば良い」と私は返します。ピアスをしたり爪を長く伸ばしたりするのは安全上の理由で禁止します。かつてNHKは「長髪であるから」という理由でタイガース(沢田研二)やスパイダース(堺正章)を出演させませんでした。「マジメそう」を求め合うのが日本文化です。保育士に「校則まがいの規範を求めるのは良い保育環境と言えない」と指針は率先して語るべきです。そこで議論が起こり、賛否が生れ、コンセンサスを求めて語り合う、それが指針が果たす本来の役目(思考)でしょう。
2月22日に発表された「保育指針解説」は374ページに及びます。その最後の8行です。

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
施設長など職員の人事・配置を担当する立場の者は、研修に参加した
職員がそこで得た内容等を日々の保育に有効に生かすことができるよ
う、専門分野のリーダーに任命するなど、資質や能力、適性、経験等に
374             応じた人材配置を行うことが重要である。保育士等のキャリア形成の過
程で、研修等による専門性の向上と、それに伴う職位・職責の向上とが
併せて図られることは、保育士等が自らのキャリアパスについて見通し
をもって働き続ける上でも重要であり、ひいては保育所全体の保育実践
の質の向上にもつながるものである。』   ?????

厚労省のHP  保育所保育指針解説参照

幼稚園と違って、朝の7時から夜の7時(8時の園もあります)まで延々と保育時間が流れます。流れる時間のなかで子どもたちはそれぞれ活動します。それを保障しながら、どこで時間の切れ目を作って集まって、どのように効率的に周知作業をするのか、後方司令室(厚労省)にお尋ねしたいものです。すべては、私たち(みなさん)の無関心とひとごと感覚で指令を受け止めてきたことに由来しているのでしょう、が………。

週刊メッセージ“ユナタンDX-9”40

2018年3月13日 火曜日

〔ユナタンDX-9〕 №40
~ 卒園式の季節 ~

平成30年3月13日  片山喜章(理事長)

卒園式の季節です。もう終わった園もあります。子どもたちは当たり前のように巣立っていきますが、私たちは、卒園する子どもの名前と顔を一人ひとり思い起こしながら、その子が経験した園生活全体を振り返る機会を得ます。

私にとっては、ひとときの出会いだったかもしれませんが、それでも印象深い物語をたくさんの子どもたちからいただきました。年々、その時々の子どもの気持ちがよくわかるようになってきました。元来、幼児性満載の自分自身の感性が時代の空気にぶつかると、今の社会の不条理や不合理を退治したくなります。それこそが私の保育者としての努めだと思います。子どもたちには、これから先、何があってもくじけないで逞しく成長してほしいと願います。

「昔はよかった、なのに、今の若い人は!」と何かにつけて回顧的に“現在”を愚痴る大人たちが居ます。いつの時代でも、それこそ古代ローマの時代から居ました。それはそれで、愚痴の数だけ大人になった証拠なので批判はしませんが、私は、ある意味「昔の方が断然、良くなかった」と思います。「今の方が個々の市民は深く考えて行動できる自由がある」と感じています。

江戸時代、農家に生まれたら武士にはなれない宿命を背負わされます。職業の自由は極端に制限されていました。長きにわたって世界中、日本中、至る所でテロ(虐殺)もありました。しかし“現在”は概ね平和であるといえます。
その分、自分の意志の力で行動することが要求されます。自由を得ている分、苦悩もくっついてくる。そういう意味ではシンドイと言えるかも知れません。

これから巣立っていく今の子どもたちはどうでしょう。その子によって逞しくなれない場面もありました。それが、その子の“今”として受けとめられたり、なかったり、担任の先生もその子同様「葛藤の物語」の主役でした。
私は長年、地域の小学校の評議員をしています。私たちの何倍も厳しい環境で勤められていると実感し共感もしています。学校の中は「昔はよかった」の時代がそのまま居座っています。昔ながらの規則や規律が温存されています。

今と「昔」のねじれによって先生のなかには子どもに不条理な暴言を吐いたり意味のない規律を押し付けたり、それを保護者が我慢し、遂には我慢できずに爆発したり、悪循環が渦巻く現実を目の当たりにします。それ故に卒園する子どもたちには「自己愛をテコに逞しくあれ!」と願い、期待もしています。

学校教育の問題は国の役人が鍵を握っていますが、机上で整合性を図りながら文言づくりに励んでいるとしか思えないのが現在です。優生学を基調にしたMustづくめで具体性が乏しい。「昔」の考え方を一旦捨て去って、今の社会に適合したポジティブな教育観をつくり出す情熱や逞しさが無い(忖度意識に負ける財務省の書き換え問題然りです)。とどのつまり、人間に対する洞察が無い。そのせいで、第一線で子どもと接する先生たちは苦闘し若くしてリタイヤする比率(資料を見ました)があがっています。ほんとうに第一線は辛いです。

保育や幼児教育において、最近、ほんとうに大事にしたいな、と考えるのは、理屈抜きに面白い活動や経験を数多く重ねるということです。一斉保育であろうと異年齢保育であろうと、保育者の引っ張る力が強くても、それが面白いかどうか、そこを問いたいです。自分が参加して面白く感じた経験こそ、時を超えて逞しさに変容すると考えるからです。日々の生活で規律や規制が厳し過ぎると面白いと感じる事の質を落としてしまうと思います。

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今年度のユナタンは、これでひとくぎりにします。次年度は、すべてエピソードになります。リアルな子どもの姿から保育を見つめます。
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過日、管理職だけでなく全職員に配布して、音読しながら活用するマネジメントブック「糧」が出来ました。みなさんにも配布します。

週刊メッセージ“ユナタン1-41”

2018年4月17日 火曜日

【ユナタン1-41】
~ 新年度早々のエピソード2つ ~

2018年4月17日  片山喜章(理事長)

今年度も「子どもたちの姿」と「その解釈」を綴った【ユナタン】がスタートします。今年度は10施設ある法人のこども園、保育園(他に児童館を運営)が、1園ずつ輪番で話題提供し、そこに私なりの解釈を加えてお届けします。

 今回は、新年度早々私が直接、かかわった2つのエピソードです。

  『導きのスキル(真似っこ。ルールのアレンジ)』
4月2日、新年度初日、A園の4歳児クラスの保育を観察していました。新しい担任はお部屋でサークルタイムをしたあと、子どもたちを1階のランチルームに降ろしました。子どもたちと集団ゲームをするというのです。クラス全体でルールのあるゲームをするのは、絵画や製作等、個々が対象物に向き合って取り組む活動と異なり、ゲームのおもしろさとルールの共通理解が欠かせません。保育者の展開力が弱いと、ぐちゃぐちゃになってしまいます。実際、保育者の強い指示や言葉の力で子ども集団を何とか引っ張っていくこともあり得ます。さて、さて…。

だらだらと、1階のランチルームへ降りてきた子どもたちに担任は、いきなり、『だあるまさんが、こおろんだ』と声高に言い放ってひとりでシェーのポーズをして見せました(おそ松くんのイヤミのポーズ)。突然の姿に子どもたちも思わずシェーのポーズを真似てしまいました。表情は輝いています。その後も担任は『だあるまさんが転んだっ!』と言い放っては次々に様々なポーズを変えてくりかえします。
子どもたちも“次はどんなポーズ?!”“次は?”と担任のリズミカルでコミカルな動きを期待し、そして真似っこをします。ありきたりのネタですが、子どもの“真似したい”“おもしろい”の気持ちを引き出した担任の力だと私は捉えました。

次に担任は後方に用意した2枚のマットに子どもたちを移動させ、自分は反対側の扉の方へ行って子どもに背中を向けて鬼になります。『だあるまさんが~』で子どもたちは鬼に駆け寄って『転んだ!』で振り返ると子どもたちは止まります。
昔からある遊びです。しかし本来?の「だるまさんが転んだ」と違います。誰もアウトになりません。子どもたちは鬼の居る付近まで駆け寄ってそこに並べられたカラーコーンにタッチするとまたマットに戻ってスタートします。
ただ単に鬼の前にあるカラーコーンをタッチすればマットに戻って再出発する。ゴー&ストップの動きを自分のペースで何度もくりかえすだけなのに、4歳児クラス初日の子ども集団がほぼ全員、楽しめます。その年齢の興味を把握したルールにアレンジして展開する事、これは保育者のスキルの大事な面だと私は捉えます。

『コーナー・ゾーンでの保育者の仕事』
コーナー・ゾーンの遊び環境は、現代の保育において欠かせない基本のキです。
4月5日、B園のコーナー・ゾーン活動でのことです。朝10時、3歳児~5歳児の80名くらいの子どもが一斉にコーナーで遊び始めます。その場で作って販売するスイーツ屋さんがおもしろそうだったので私はイートイン用の椅子に腰かけてみました。間もなく黄色のエプロンと花柄の三角巾をまとったKちゃんがお皿にケーキセットを綺麗に盛り付けてやってきました。私は笑顔控えめでイチゲンさん気分で緊張感を漂わせて店員さんの方に目を合わせます。ここは居酒屋ではないのです。

「うちのケーキセットおいしいですよ、どうですか」とすまし顔の店員さんが声をかけてくれました。パティシエらしいです。私がイチゲンさんらしく浮かない表情で「じゃ、お願いします」と返すと、Kちゃんはスプーンとフォークを添えてケーキセットを置いていきました。私は(心得として)誰も見ていなくても、そのケーキをほんとうに美味しそうに口元にもっていき、口だけをもしゃもしゃさせながら、美味!という表情をつくって独りうなずいていました。私の意識はもはや観察者ではありません。するとまたKちゃんが近寄って来て「いかがでした」と尋ねました。私はマジに美味しかったと答えるとKちゃんはふたたび豪華なケーキセットを両手に乗せてきたのです。表情豊かに「これ、うちの新作なんですよっ」と甘めの声で勧めるではありませんか。おすすめされると断れない性分の私は「はっそうですか。では、いただきます」と押され気味の受け応えしかできませんでした。

私の存在に警戒心を抱いていた3歳児のNちゃんは、このやり取りを見ていたようです。まるで珍獣に餌をあげるように恐る恐る私に近づいて自分の作ったケーキをそっとおいてさっと逃げて距離を置きました。無言でケーキを食する私の姿を見て安心したのか、その表情から警戒心が抜けました。大人の真剣な演技の成果です。このお店の品々はベースが本物仕立てで品数が多くトッピングも豊富です。トングやラップも本物です。このような手の込んだ環境づくりは保育の重要な一面です。