週刊メッセージ
週刊メッセージ“ユナタン”24(みやざき)
2017年1月6日 金曜日
≪ユナタン:24≫ at みやざき保育園
~ 運動会秘話 ~
平成28年10月24日 片山喜章(理事長)
《不安を蹴飛ばす「速い靴」》
年長クラスのA君は、運動会の『かけっこ』の練習が始まると、走る前からどんよりした顔になります。A君の気持ちは少し複雑です。『かけっこ』はぜったいに負けたくないという気持ちが強いので「負けたらどうしよう」「負けるかもしれない」「だから、かけっこはやりたくない」という気持ちに陥ってしまうようです。過去の運動会においても、そんな姿がありました。その日の練習では担任と一緒になんとか走りきって、完走しましたが、Aくんの中では葛藤が続きます。「負けたくない。走りたくない」「でも、走って、1番になるカッコいい所を見てほしい…」
そこで、担任が「Aくん、どうして、走るの、嫌なの?」とあえて尋ねてみました。すると、A君から返ってきたのは「靴が速いやつじゃないから…」という答えでした。そこで「じゃあ、どうしたいの」とさらに聞くと「朝、履いてきているやつは速いやつ…」と答えました(園庭用と登降園用は別の靴です)。「そっか、朝、履いてきた靴なら速く走れるんだ」と担任が聞き返すと「うん…!」と少し強気で、自信のある表情になりました。その日、その後、その靴を履いて、ドロケイをして遊んだそうです。
翌日、法人オリジナルの「エンドレスリレー」を年長クラスで行いました。それは、トラックの周回上に、3人1組くらいのグループをいくつも作って、くりかえしバトンタッチをして走り込む活動です。何週も走り込む経験によってA君は、少し凛となりました。そして運動会当日、「自分は速く走しれるんだ!」とA君の中でスイッチオン。
「快い靴」を履いて、しっかりとスタートラインに立ちます。実は、A君はとても足が速いのです。腕を伸ばして何とか1着ゴールに食い込もうとします。が、バランスを崩しそのまま転倒。結果は2着でした。1番になれず、悔し泣きをするA君でした。
「この後の競技に、Aくんは、参加できるのだろうか?」そんな思いが、保育者の頭をかすめました。しかし、Aくんの中で「速い靴」を履いて気持ちのスイッチを入れた時、その壁を彼自身がもう乗り越えていたことに気づかされました。
『僕は大丈夫』その根っこにある揺るがない自信をその後の彼の競技をする姿から垣間見ることができました。勝ちたいから、良く見せたいから緊張し、物怖じすることがあります。それを「乗り越える機会を設定」することが「保育の役割」だと思います。
かけっこは、2着でしたが、走る気持ちは、不安を打ち負かしたA君でした。
《やりたいけれど、はずかしい》
同じく年長クラスのBちゃん。運動会のプログラムを読む担当です。話し合いのなかで、自分から立候補しました。「やりたい」気持ちはあるものの、人柄として恥ずかしがり屋のBちゃんは、なかなか言葉が出てきません。彼女もまた、「失敗したらどうしよう。間違えちゃったらどうしよう」という不安が大きいために、言葉が出ないのです。
事務所で、プログラム読みをする子どもたちは、一人ずつ全員練習します。そこでBちゃんは「ムリむり無理~~!」と言って、初回の練習では全く言葉が出ませんでした。
「それじゃあ、覚えてきて、今度またやってみよう」とカンペを渡し、後日、2回目の練習に臨みました。今度は、言葉は出たものの、蚊の鳴くかの様なちっちゃな声。「Bちゃん、今の声だと運動会でたくさんいるお客さんには聞こえないと思う。もう少し大きな声、出る?」と主任の先生が尋ねると、「ムリ…。」という返事でした。
きっと、やりたい、できない、やっぱりやりたい、でも……と、Bちゃん自身、自問自答しながら、結局、自分に負けているようでした。
そこで主任の先生は「Bちゃん申し訳ないけど、このままだとお客さんに聞こえないからプログラム読むのは他の人に変わってもらう方がいいかも。他の係に変える?」と少し突き放すような言い方をしました。するとその瞬間、Bちゃんの瞳の奥がキランと光りました。「ヤダよ! やるよ!」と言葉には出ませんでしたが、その眼はしっかり訴えていました。何かが吹っ切れた感じです。“Bちゃんは、もう大丈夫”と、先生たちは感じ取ったようです。3回目の練習は、予想通り、バッチリでした。当日も園庭のど真ん中で、お客さんの視線を一身に浴びながら、のプログラムを堂々と読んで、たくさんの拍手をもらいました。Bちゃんもまた自信に満ち溢れた表情になっていました。
「やってみたい気持ち」を「羞恥心」が邪魔するのは、日本人の特質かもしれません。良し悪しは別にして、ここでは保育者の突き放す一言が「やりたい」気持ちを押し上げたように思います。このようなかかわり方も「保育者の役割」だと思います。
練習過程では、上記のような葛藤の秘話を多くの子どもたちが持っています。行事は過程が大事と言われますが、できないことを“その子らしさ”と考えるのか、できないことをその子自身が、“何とかしたい”と願っているのかどうか、この辺りを、しっかり見極めることで、練習過程の良し悪しは決まります。それは本番の姿に現れます。
佐藤園長先生は、主任時代から、年長児の組体操の最後の練習の時、決まって子どもたちに伝えていることがあります。「運動会の本番は、お家の人に胸張って『どうだ!』っていう所を、堂々と見せてあげるんだよ!」と熱い言葉を投げかけます。
誰が見ても、聞いても、貫禄のある言葉です。 【資料提供:太田亜希&色摩瑛莉香】
週刊メッセージ“ユナタン”26(世田谷はっと)
2017年1月6日 金曜日
≪ユナタン:26(プレミアムユナタン)≫ at 世田谷はっと保育園
~ 追っ掛けドキュメンテーション ~
平成28年10月21日 片山喜章(理事長)
今年度はじめ、みなさまに「いくつかの取り組み」について説明いたしました。そのなかの1つに、5歳児つばさ組の子どもたちによる「誕生会プロジェクト」があります。ご存知?のように、毎月、5~6人の子どもたちが担任以外の先生とともに数回にわたって「企画会議?」を開催し、誕生会全体を運営するというコンセプトです。そこでくりひろげられた「フォト入りのドキュメンテーション」は、玄関のテーブルに置いていますから、これを機にぜひ!お目通しください。今回は、【山田寿江】【上迫まなみ】の2人の主任が、2歳児はっぱ組のA君の姿を追いました。つばさ組の子どものための「誕生会プロジェクト」がもたらした“異年齢効果”の一例です。2人が綴った原稿をほぼそのままの形で編集しました。(A君のお母様には確認・掲載承諾済です)
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7月の「乳児誕生会」でのこと…‥前日の「幼児誕生会」で、5歳児が劇を発表しました。翌日の「乳児誕生会」でも同じ劇を発表したところ、子ガニ役として劇に参加し始めた2歳児はっぱ組A君は、前日に一度しか見ていないにもかかわらず、物おじせずに役になりきって演じる姿に驚きました。そこで、4月に遡りA君の姿を追いかけました。(※はっぱ組は「幼児誕生会」と翌日の「乳児誕生会」の2回参加します。つばさ組のプロジェクト担当も2回、出演します)
1歳児の頃のA君は、興味を抱いたものにはとことん関わる姿がみられました。お散歩前は、エントランスでタオルの入っている扉をひたすら開け閉め。移行期に2階の幼児のお部屋に行く頃は、トイレの扉に興味津々でくり返しトイレに入ったり、出たり、夢中でした。そんな行動を制止すると激しく泣いて抵抗することもあり、全クラスの職員がそんなAくんの様子をそっと見守り続けていました。体格も良く、目立った行動が多いので、幼児クラスの子どもたちからも「Aちゃん」「Aちゃん」と呼ばれて気にかけてくれる、可愛がられる存在でもありました。
2歳児はっぱ組になってからのA君の誕生会での姿
4月の「幼児誕生日会」はっぱ組になって初めてです。2歳児はっぱ組は、マットに座って参加するのですが、1人だけイスに臆せず座り“これから何が始まるの?”と楽しみにしていました。途中で飽きて顔を下に向け、終始落ち着かない。しかし5歳児の劇“にんじんさんがあかいわけ”が始まると目はキラキラ。翌日の「乳児クラス誕生会」、(2歳児が「乳児誕生会」に参加すると、0・1歳児の子が2歳児を見て落ち着き、2歳児もお兄さん・お姉さん気分。異年齢同士のかかわの成果です)。4月はまだ、5歳児が舞台で演じる様子を見て楽しむだけのAくんでした。
5月の「幼児誕生会」、5歳児の出し物はハンドベルとピアニカ“かえるのうた”と劇“はなさかじいさん”。誕生会が始まると、しばらくつまらなそうに下を向いたり、そわそわしたり・・・。でも、ハンドベルの演奏が終わると静かに拍手。“はなさかじいさん”の劇が始まると、盛り上がるシーンでは手で目を隠したり、声を上げたり…とても楽しそうに見ていました。
6月の「幼児誕生会」もいつも通り?3歳児と一緒に椅子に座って参加。自分のクラスの誕生児が舞台で受け応えしていると、じっーと見入っています。でも出し物の“なぞなぞ”と大きな絵本になると興味をなくし、後ろにいた保育士の方を何度も振り返り、カメラに向かってポーズ。
7月7日の七夕会では、職員が“織姫と彦星”の劇を発表しました。笑顔で楽しそうに劇を見ています。時には、真剣な表情も…。そして、天の川が登場すると少しずつ動き出し“いまだっ!”と思ったのか前に登場しました。職員と一緒になって、天の川役に徹します。たくさんの観客=子どもたちも“Aちゃんらしい”と応援し、A君は最後まで喜んで参加していました。その月の「幼児誕生会」では、やはり3歳児クラスと一緒にイスに座って参加していましたが、今回は2列目に座っています。自分のクラスの誕生児が舞台に上がるとジッーと見て拍手。でも、ピアニカの“チューリップ・メリーさんのひつじ”には興味がないようで、上を向いたり、ボッーとしたり。しかし、劇になると一変しました。“さるかにがっせん”が始まった途端、グ~ンとテンションが上がり始め、拍手をしたり、笑ったりと劇に興じる姿が見られました。
そして、この翌日、7月の「乳児誕生会」が始まる前、自分の居場所が見つからずウロウロして、やっと先生の膝の上に落ち着きます。しかし、長くは続かず、しばらくすると床に寝転がりまたゴロゴロ…。前日、同様“さるかにがっせん”が始まります。サル役(この役は先生)が出始めたとき、少しずつ体を起こし始め… 遂に、子ガニ役になって舞台に登場! 他の役を演じるつばさ組の子と一緒に逃げ回り、サルに柿をぶつけられたシーンでは、一緒に倒れます。前日、一度しかみていないにもかかわらず、劇の流れや動きをバッチリ知っているようでした。A君がサプライズで舞台にあがり演じる姿に、いっしょに演じるつばさ組の子は、もちろん職員も、はっぱ組の友達も、観客もみんなが温かい目でA君の様子を見守ります。5歳児が演じる舞台でも、先生たちも5歳児も誰も『駄目だよ!』言わないし、不快な顔をしないのです。子ガニ役を演じきって、最後の挨拶も並んで礼までしました。演じきったA君の表情は、それは、それは、キラキラしていました。
8月の「幼児誕生会」の出し物は手遊び・歌“おばけなんてないさ”劇“カチカチ山”でした。会が始まる前は、2階の入り口の階段の柵扉をガタガタと揺らし全く興味のない様子。ところが、劇が始まった途端に、前のめりになって舞台に釘づけです。目をキラキラさせて、飛び上がりながら喜んでいます。そして、前回よりも真剣な表情でした。この時、まさに、見て学んでいたのです。この経験が、次の日の「乳児誕生会」で発揮されることになるのです! そして! 翌日の「乳児誕生会」、この日は、最初から劇に参加することを決意していたのか、前方のサークルベンチにどっしり座って、じっと待っていました。“おばけなんてないさ”の歌に合わせて大きなお化けが登場したので思わず立ち上がり、昨日も見たぞ!知ってるぞ、と言った風のA君でした。劇が始まると、たぬきが畑をいたずらするシーンで大興奮。たぬきがいたずらをしておじいさんに追いかけられるシーンでは、今か今かと出るタイミングを伺っているような様子のA君。そして、たぬきが捕まるところで、たぬき役として登場! たぬきが捕まるイスに座って、一緒に捕まります。おばあさんをだまして、逃げ出す場面ではうさぎ役にチェンジ。泣いているおじいさん役の保育士を見つめます。うさぎが石を取りに行くシーンでは、なぜかマットの陰に隠れます。そして、泥船に乗って川を渡るシーンでは、初めは自分も船を持って行こうと動きますが、舟がないことに気付き…青いビニールシートを持って「ザブーン、ザブーン」とアドリブでセリフまで言って川役になりました。A君からアドリブで、セリフが飛び出したことにとても驚きました。お母さんも普段の保育園でのA君の姿をありのまま受け止めて、園に全面的に信頼をよせて下さっています。A君の劇への参加の様子をお母さんに伝えると、「秩序を乱してませんか?」と心配されていたので、「秩序を乱すようなことがあれば止めます」と話しました。A君の場合、絶妙なタイミングで、劇のどの場面で登場したら良いのかを見計らって出てきましたから、劇の邪魔することはなかったのです。そして、劇をしていた5歳児も先生たちもごく自然にA君の登場を受け入れて、A君は、心地よく演じ続けていたのでした。
9月はA君の誕生月です。果たしてA君はどんな姿を見せてくれるのでしょう。前日にクラスの保育室でみんなの前でイスに座り、お誕生日の歌をうたってもらったA君は、恥ずかしさや緊張からか、顔がこわばり天井を見上げたり、イスから落ちそうになったり…。よほど緊張したのか、(ナント)誕生会当日は熱が出てお休みしました。そして、次の日に行われた「乳児誕生会」では…。いつもと違う雰囲気を肌で感じ取っているのか、何だか浮かない表情でした。そして、自分の名前が呼ばれても、なかなか出て来られず。保育士が抱っこして登場し、離れようとしません。普段、滅多に見ることがないその姿に私たちは驚きました。司会者の質問にも、口を閉ざしたまま何も答えません。やっと解放され、元の場所に戻ることができたA君は、半べそ状態でした。しかし、つばさ組のマジックが始まると、表情も和らいで、誕生会が終わってサーキットに移動する頃には、いつものA君に戻っていました。
いつにない緊張感からシャイな姿を見せたA君、9月の誕生会の様子から「運動会」ではどんな姿を表わしてくれるだろうか、と職員の間で話題になりました。「運動会」では、はっぱ組の数人が、かけっこが楽しくて2回走りたい!と、再びスタートのイスへ行こうとしました。A君もその一人でした。運動会を楽しむ姿は、2歳児らしく、協技もはつらつとした笑顔で参加していました。この時も予想に反し?自然体のAくんに驚きを覚えつつ大きな成長も感じていました。
10月の「幼児誕生会」、前月、お休みだったので、舞台に上がることを予感したA君は。緊張の面持ちでイスに座っています。いざ、名前を呼ばれても、立ち上がることができません。同じクラスのC君に促されて、舞台へ進みました。舞台前の段で腰掛けます。…が、司会の先生に手を引かれ、しり込みしながらも誕生児席のベンチに座りました。みんなが注目している舞台の上です。正面は向かず、盛んに天井を指さして「あっ!あっ!」と何かを訴えているようです。指差す先を見上げていました。「A君には、何か見えるようですね~」と司会者の気を利かせた言葉に会場がどっと笑いに包まれました。「Aちゃんは、どんな遊びが好き?」とインタビューされ、上空を指さしながら、消え入るような声で「消防車」と答えました。“ハッピーバースデー”の歌をみんなからプレゼントされ、ホッとした表情で舞台から降りてきたA君は席に戻ると、劇“シンデレラ”を静かに見ていました。翌日の乳児誕生会でも、以前のように参加しようとする行動は見られず、誕生会を終えました。
昨年10月に弟が生まれ、弟の存在を意識し始めた頃、お母さんを求めて泣くことがありました。毎朝「こっちの道がいい」とお母さんを振り回しながらの登園。夏は、セミの抜け殻を探しながら来ることで、いくらかスムーズに登園できるようになったとのことです。A君なりの葛藤を通して徐々に弟を受け入れることができるようになっていったのでしょう。この半年余り、誕生会や様々な行事を通して、突出して目立った行動をするA君に変化があったことは明らかでした。
先日の保育参加の日、異年齢での散歩では、友達と手をつなぎ人数確認の列に並んで静かに座って待っています。傍らで、そっと見守るお母さんは「“何でいるんだ?”って顔をしてるんですよね~」と嬉しそうに見守っています。その時、お兄ちゃんとしての自分を思い描いて行動しているようにも見えました。どこか誇らしげで、その表情は、きりりとしまっていました。(了)
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というエピソードでした。はっと保育園は、2歳児も幼児クラスとともに異年齢で生活する場面があります。誕生会の出し物企画は、5歳児つばさ組の子どもたちは担任以外の先生と何度か話し合いをして、当日を迎えます。グループ別のクラス保育ですが、A君はその影響を受けて、幼児誕生会の舞台でも翌日の乳児誕生会の舞台でも出演者になりきろうとします。また、つばさ組の出し物に触発されて、自然発生的に4歳児そら組の子どもたちが、「金の斧・銀の斧」の劇をはじめた事もあります。1つの空間に異年齢児がともに過ごすだけでなく互いに影響をあたえって、時を経て、遊びや学びが広がる事もまた「異年齢保育」といえるでしょう。
また、A君のような突出した行動を良く思わないのが、日本の保育や教育の実情です。ということは、日本全体を覆う風土です。悪い子とは評価しませんが、誕生会のような場面では制止するのが一般的です。職員間でも葛藤がないことはありません。しかし職員以上につばさ組をはじめ子ども集団がA君という個性を理解して受容していることに驚きます。運動会本番や練習期間を見ていても、個々においては、温和で、ひ弱な面を持つ子が少なくはありません。けれども何か協同的な事をする! となると、自分の考えや思いを出し合って、子どもたちが主導で創りあげようとする「集団(子ども社会)」になります。今後も「誕生会プロジェクト」の話し合い時の会話の内容まで記述した「ドキュメンテーション」を作りながら、子どもに寄り添うマインドを一層、豊かにしていくことが職員集団のテーマです。それが、この園の特徴になりつつあると思います。
週刊メッセージ“ユナタン”26(みやざき)
2017年1月6日 金曜日
≪ユナタン:26≫ at みやざき保育園
~ いけないことをまなぶ ~
平成28年10月24日 片山喜章(理事長)
『とある出来事』
ある日の朝。玄関で年長児クラスのAくんがお母さんから離れられず、泣いていました。年長クラスなので、別れが辛くて泣いているとは思えず、登園途中に何かあったのでは思って、職員がお母さんにお話を伺うと、その前日の『とある出来事』がAくんを苦しめていたのでした。
前日、Aくんは同じクラスの友達数名と室内を駆け回っていました。他の友達は外遊びをしている時間です。その様子に気づいた担任は「みんな外に出ているのに部屋で走っていると危ないし、ケガするから外に出よう」と声を掛けました。「は~い」とその場ではみんないいお返事をします。しかし、その後、しばらくして担任が居なくなると、再び、室内に戻って走り回りだしたのです。しかも、夕方の外遊びの時間でも室内で走り回っていたため、とうとう担任はその場にいた子どもたちを呼び集めました。そして、あらためて「部屋を走り回っていると本当に危険なこと」を真剣に伝えました。子どもたちは神妙な顔つきで頷いていました。けれども、Aくんは、こちらに向かってくる担任の姿をいち早く発見し「マズイ!怒られる」と、咄嗟に、その場を立ち去りました。おかげで担任のお叱り?を受けずに済みました。
この時期、ちょうど運動会前で、プログラム読み、初めの言葉、終わりの言葉などマイクでアナウンスする友達が順番に事務所に“呼び出されて”練習をしていました。この日の夕方も順番に何人もの友達が事務所にやって来て練習をしていました。ここでAくんは、ドキッとします。 年長クラスの友達が次々に呼び出される様子を見ていて「きっと、さっき部屋を走っていた自分たちが順番に呼び出されて、あの園長先生に叱られているんだ」と思いこんだのです。『園長先生にまで呼び出されるようないけないことをしちゃったんだ。なのに、自分は逃げてしまった。噓をついたり、悪いことをしたら、地獄に落ちるって、そういえば、友達が言ってた(年長クラスでは“怖い話”が流行っています)。どうしよ。どうしよ。どうしよ。どうしよ。どうしよう・・・・』。その時、Aくんは心の中でそんな叫び声をあげていたと推測されます。
その日の帰り道、Aくんのお母さんはわが子の表情がすぐれないことに気付きました。何かあったの?と尋ねようとしたら、急に大声で泣き出したそうです。そしてAくんはお母さんに自分が「いけないこと」をしたのに逃げてしまったことを正直に話したそうです。お母さんは「では明日、担任の先生にちゃんとお話ししよう」と言ってAくんを諭しました。そして、一夜明けたこの日の朝、担任の先生に正直に話をするには勇気がいります。どきどきし、その重圧に耐えかねたのか、Aくんは玄関で泣いてしまった‥‥・・。というのが『とある出来事』の内容です。
“怖い”の気持ちがあたえてくれるもの
その後、Aくんは、お母さんと離れ、事務所で担任と2人になって話をしました。その時、味わった安堵感とその前日、前夜の恐怖や苦悩の落差は、計り知れないほど大きいと思います。
子ども時代、このような経験は誰にでもあるはずです。O先生も、年長クラスの頃、友達の家に遊びに行って、友達の家の玩具のミニカーをこっそりポケットに忍ばせて持って帰り、親に「どうしてその玩具を持っているの?」と聞かれ「プレゼントしてもらったの!」と、咄嗟に嘘をついてしまい、動揺した表情に「神様は見ているんだよ」と言われ、相手のお家に電話をかけて事実を確かめる母親の姿に「どうしよ。どうしよう」とハラハラしながら聞き、その後、ひどく叱られたのを今でも鮮明に覚えているとのことです。その経験が、今の“誠実さ”を育んだのでしょう。
今、年長児クラスでは、「小学校の七不思議」のようなちょっと怖いけど、興味を持たずにはいられない話が流行っています。そのおかげ?で、Aくんは、自分の非に対して後悔の念を抱くことができたのかもしれません(その背景にはしっかりした親子関係が在ったと思います)。いつの時代にも「怖い話」はあります。「トイレの花子さん」のようなただ怖いだけでなく「悪いことをしたら地獄に落ちる」「うそをついたらエンマさんに舌をぬかれる」など、“教育的な怖い話”は、童話や昔話とならんで、古今東西、すたれることはありません。
大人は現実の恐怖とフィクションのなかの恐怖を(たぶん)区別できますが、子どもたちは、空想の世界と現実が混ざり合うことがよくあります。なので、自分の「願い」が「ウソ」として言葉になったり、「していけないこと」を平気でしたり、逆に、「イタズラ」や「いけないこと」をした後で、大きな恐怖感(罪悪感)に苦しんだりします。外界に対する畏怖の念や宇宙に漂う大いなる存在を感じ取り、恐れ、慄く経験を通して、正直さ、素直さ、誠実さ、正義を会得していくと考えられます。ですから、幼少期に「いけないこと」を何度もやらかして、適度に叱られて、罪悪感や後悔の念に苛まれることで、社会性の芽が育つと思います。ず~と“おりこうさん”でいると、やがて良い子でいられず、ある時、様々な形で爆発する危険性を秘めています。親も社会全体も、子どもに“おりこうさん”であることを求め過ぎない方が良いと考えます。
私にとって、怖いのは、いま、世界のあちこちで起きている事象です。今まで維持できていた秩序が崩れ出した感があります。私たちの多くは、世界中に広がる混迷や殺戮をわが事として受けとめづらいと思います。けれども地震は違います。実際、災害を体験し“怖い話”として見聞きしている私たちは災害時には協力と協調の精神を発揮します。今現在、多くの自治体が地震に備えた避難訓練を展開しています。こんな国、他にあるでしょうか。そして今、世界中で起きている様々な惨事に遭った人たちの惨状や心境に、胸を痛める感受性を磨くためにも、この時期、数多くの“怖い話”に怖くない素振りをしたり、「いけないこと」をして、しっかり叱られたり、多種多様な“怖い思い”を経験することも大切だと感じます。 【資料提供:太田亜希】
週刊メッセージ“ユナタン”26(もみの木台)
2017年1月6日 金曜日
≪ユナタン:26≫ at もみの木台保育園
~ ザリガニの死がくれたもの ~
平成28年11月18日 片山喜章(理事長)
幼児クラスの絵本コーナーにはザリガニの水槽が2つあります。1つにはオスのザリガニ、もう1つにはメスのザリガニ(赤ちゃんも一緒)がいます。毎日、目にする場所にあるので、子どもたちは水槽の掃除やエサあげを手伝ってくれます。ただ、率先して手伝ってくれるのは、ザリガニを怖がらず触れることのできる5歳児が中心でした。
3歳児のAくんは、ザリガニに興味ありました。けれども、触ることにはまだ抵抗があり、掃除をしている保育者や友だちの様子を少し距離をおいて、じっと見ていました。
ある日のこと、メスのいる水槽が空っぽで、オスの水槽にメスザリガニと赤ちゃんが入っていまいた。それを発見した先生は「危ない…」と驚いて、その後、子どもたちに問いかけました。すると「Aくんが、やった!」と声があがり、Aくん本人に問いかけてみると【自分がやってしまった】ということでした。ご存知のように、ザリガニは、“共食い”をします。特にオスのザリガニは、小さなザリガニを食べてしまいます。
その事を子どもたちには(Aくんにも)「知識」として言葉で伝えていましたが、言葉だけで、好奇心や探求心を抑えられるような「知識」ではないと考えさせられました。
園庭あそびの時間、先生はAくんと保育室に残り「どうしてやってしまったの?」と問いかけてみました。Aくんは【おもしろかったから・・】と目を伏せながら答えました。【おもしろかった】というAくんの話しぶりで、何人かが集って、ワイワイ言いながらやってしまったと思われました。そこで、「やってしまったのはしかたないけれど、このままに放っておくの?」と問いかけると、Aくんは、少し考えてから「元に戻す」と答えたので、先生は、メスザリガニと赤ちゃんを、それぞれの水槽に戻しました。
戻す作業をしていると、死んでしまった2匹の赤ちゃんザリガニも見つかりました。その2匹をAくんは、何とも言いようのない表情で見ていたのです。
「ザリガニのお家(水槽)を2つにわけていたのは、オスのザリガニが赤ちゃんを食べてしまうから、別々にしていたんだよ」と先生はあらためてAくんに伝えました。
こんな時、保育者として、3歳児の子どもにどのような言葉がけをすれば良いのか、悩ましいかかわり方です。「いけない事だから、もう絶対しないでね」と念押しするか、「この経験によってAくんは、“いけない事をした”と後悔しているだろうから、あまりきつく言い過ぎないほうが良いのか」と考えるのか、みなさんはどう思いますか?
水槽を元に戻した担任は、ゆっくりした口調でAくんに言いました。
「もし、Aくんと同じように“やりたい”って気持ちになって“やっちゃえ”と言って、やりそうになっているお友だちを見つけたら、Aくんが“違うんだよ”“やっちゃいけないよ、“赤ちゃんがたべられちゃう”って教えてあげたら、センセイ、嬉しいな」と声をかけました。すると、にわかにAくんの表情が明るくなり、「分かった!」と力強く答えて、そのまま園庭に出て行きました。この日から、Aくんは、ザリガニの水槽を掃除していると以前よりずっと近い距離でその様子を見守ってくれるようになりました。
今回のエピソードをふりかえると、いろんなことが見えてきました。
最初、Aくんと担任が話をした時、Aくんは“やってしまった・・・”と反省しているようにも見えます。しかし、それは、赤ちゃんザリガニを死なせたというよりも、先生にみつかってしまい、そこにいた友だちから「Aくんがやった、Aくんが・・!」と非難の声があがったことに対して、辛い気持ちになったように思われます。その時のAくんの様子を見て“やってはいけない”“なぜ、いけないのか”その辺りの認識は微妙ですが、してはいけないことを、やってしまったことだけはわかっていたように思えます。
概して、子ども時代、誰しもやってはいけないことは、したくなるものです。実際、やってみたらどんな災いがくるのか怖いもの見たさと同次元で試してみたくなります。それは探求心や好奇心の現れで、必要悪であるようにも考えられます。
ザリガニを分けているのは『食べられてしまうから』という理由を言葉で知っていたAくんにとって「食べられる」ということに『リアリティ』が持てなかったと思います。
しかし、実際に死んでしまった赤ちゃんザリガニの処理をした体験は衝撃的だったでしょう。そこではじめてAくんは『水槽を分けている理由』を心底に刻んだように思います。同時に“興味があったザリガニが自分のしたことで死んでしまった…。
もう、こんなことはしない!”とAくんはしみじみと「理解」できたと思われます。
このように子どもの心理はひじょうに複雑です。そこを大人が理解する事が大切です。多くの大人は「子どもには、やっていい事といけない事を教えなければナラナイ」と簡単にいいますが、諭す大人との信頼関係が無くてはならず(信頼関係で結ばれた親子なら厳しく叱責しても良いと思います)、担任と生徒の関係なら、厳しくても自尊心を傷つけないように諭すことが大切だと思われます。今回、先生はAくんの心情を洞察して叱責するより「今度、誰かがしたら、あなたが注意してね」と自尊心に訴える表現をしました。そんなふうに言われると「自分は2度としないぞ」と心地よい気分のなかで自分に言い聞かせることができます。今回のようなかかわり方によって“してはいけない事”を体得します。これこそ保育だと思います。 【エピソード提供:佐藤 廉菜】
週刊メッセージ“ユナタン”26(なな)
2017年1月6日 金曜日
≪ユナタン:26≫ at ななこども園
~ いのちのつながり ~
平成28年11月21日 片山喜章(理事長)
4歳児あさがお組は、3歳児ゆりぐみの時から身近な虫に興味を持っていました。劇あそびも「だんごむしのころちゃん」を題材にしました。4歳児に進級した(担任は持ち上がり)際には、メダカ(虫ではありませんが…)とダンゴムシの世話を自分たちでするようになりました。
そして6月、カタツムリが仲間入りすると虫の図鑑もよく広げて見るようになり「にんじんとキャベツ食べるねんて!」と給食の先生のところへ行き、給食で残ったヘタをもらえるようお願いをして毎日取りに行っています。また、貝殻も食べことを知ると夏に海へ遊びに行った友達が貝殻を持ち帰ってきてくれて、カタツムリにあげてくれていました。カタツムリは、にんじんを食べると赤いウンチ・キャベツやきゅうりを食べると緑のウンチをすることもわかりました。
このように虫(生き物)に対する興味や関心がどんどん湧いてきたようでした。
夏から秋にかけては、“バッタ”・てんとうむし・コオロギと、子どもたちの虫への熱は上昇し、ある日の散歩で“カマキリ”に出会いました。カマの形をしたかっこいい前足、凛とした顔に興味津々、帰園してすぐに図鑑で調べました。「カマキリの餌は、草、アブラムシ、“バッタ”など」子どもたちは書かれている中味は理解したようですが、実際にあたえていた餌は、草ばかり‥
フリーデイの日、みんなそれぞれ好きなコーナーで遊んでいるのに、何度も何度も自分の部屋にもどってきては「カマキリ」の入ったケースを覗きにくるAくん。「どうしたの?」と担任が声を掛けると「かまきりさん、元気ないねん」(そう言いながらケースを持って見せてくれる)。
確かに、朝一番は元気に動いていた「カマキリ」が、じーっと動かずにいました。A「全然動かへんやろ?」保「ほんと、何でかな?」A「うーん…。わかれへん。ちゃんと草あげてシュッシュ(土や草の乾燥を防ぐために、子どもたちが霧吹きで水をかけています)してるのに」
保「そうだね~。みんないつも面倒みてるのにね。どうしてかな~?」A「わからんから、みんなにも聞いてみるわ!」ということで、朝の会でみんなに話してくれることになりました。
「カマキリさん元気ないねん」というAの投げかけどおり、カマキリは横たわっていました。「なんでやろ?」「かわいそう…」「死んじゃったんじゃない」「死んでない!お腹動いてるもん!」「じゃあ、寝てるんじゃない」。「あのさ、葉っぱ食べてないで~」というBの言葉でさらにケースを覗き込み「ほんまや~」「なんでやろ?」「この草じゃないのが好きなんかな?」などなど。B「あのさ、カマキリさんの餌、ここに書いてるで~」(部屋にある図鑑を持ってきてくれる)。そのページを開き「草、マブラムシ、“バッタ”…」と、ふつうに読んでくれました。
ほとんどの子が「そんな、知ってる~」と言ったものの(あれっ?)話は前に進みません。しばらく考え込む子どもたちです。そしてCくんが「ばらさん(5歳児クラス)も、カマキリ、飼ってるねんて~」とポツリ……。担任が「そうなの? ばら組さんは、どうしているのかな?」と、投げかけてみると、Dが「じゃあ、ばらさんに行って聞く?」と提案したのでした。
5歳児ばら組は園庭に出て留守でした。そして「カマキリ」のケースを覗くと元気でした。「しっかり立ってる!」「シャキン!って元気や!」「ほんまや~」と子どもたちは驚きました。C「な~、なんで、ばらさんのカマキリって元気なん?」という問いに、たまたま部屋に戻って来たばら組のE(女児)は「餌とかちゃんとあげてるもん!」と誇らしげに言いました。
Fが「ぼくたちも、ちゃんとあげてるで。なあ?」と言うと、他児も「うん!」と頷きました。Gは「草も枯れてきたら、ちゃんと新しいの、入れてあげてるやんな~」「うん!お水シュッシュもしてるもん!」などいろいろと返していました。
すると、ばら組のEは「え~?餌は、草じゃないで~!。“バッタ”とか、ダンゴムシやで!」
……「チン~」その一言に、あさがお組の子どもたちは沈みました。“バッタ”は飼っているし、ダンゴムシもゆり組の時から親しんできたのですから、無理もありません。「それからな、あんまり水もいっぱいにしたらアカンで~」とEは、さらにアドバイスもしてくれました。みんなは、Eにありがとうと言い、またクラスに戻って、話し合いをすることにしました。
さきほどまでの活気は無くなり、部屋中、どんより暗くなっていました。こんな時、大人はどのようにかかわればよいのでしょう(あなたなら、どのような言葉を投げかけますか?)
担任は、仕切り直して「Eちゃんは何て、お話してたっけ?」と尋ねました。Bは「あのさ“バッタ”、食べるって…」「ほんとにそう言っていた?」と担任が確認すると「うん」と全体が頷きます。この雰囲気の中で、どのように話を進めていけばよいのか、担任を悩ませます。
担任は「そっか~。Bくんも図鑑に書いているよ、って、さっき読んでくれたもんね」と念押しました。きっと図鑑にあった「餌として“バッタ”・・」と書かれたある文言と自分たちが飼育している“バッタ”が即座につながらなかったのではないかと思われます。
それに対して、Hが「え?でもさ…」と何か言いたい様子。担任が「どうしたの?」と尋ねると、Hは、「でもさ、バッタさん、可哀想やん」と小声で話してくれました。
担任は「どうしてそう思うの?」と再度、尋ねると、H「だってさ、死んじゃうやん…」そのHの言葉に、Fは「え~?でもさ、じゃないとカマキリさん死んじゃうやん!」と言い返します。
そこからは「そうや!死んじゃったらもう、生き返らへんねんで!」「命は一個しかないもんな!」「死んじゃったら、もうご飯食べたり、お母さんとかお友だちとかに会われへん、ってことやねんで~」Hの考えに賛同しているのか、Fの考えに賛同しているのか、どっちがどっちだかわからないまま少し声のトーンはあがって意見交換が続きます。
担任は「(カマキリに)バッタさんあげないと駄目なの?」「草も食べるんだよね?」と、もう一度、聞き返すと、「うん!」「だってさ、カマキリさん元気ないもん!」「草だけやったらアカンって言ってたし…」と、1人、2人、3人…と声が広がっていきました。
「そう。じゃあ、バッタさん入れてあげる?」と担任が問い返すと、Hは「え、アカンアカン」するとFは「だから~、あげへんかったら、死んじゃうねんで! それでもいいん?!」
まさに生死がかかった葛藤が続きます。「バッタを餌にしないとカマキリが死んじゃう」と言われてHは、じっと黙って辛い表情を浮かべていました。そこで担任は「みんなはどう思う?
カマキリさん死んじゃったら駄目だからバッタさんあげる?でも、そうしたらバッタさんは死んじゃうんだもんね?」と再度、問いかけると「うーん…」と考え込む子どもたちでした。
この場面、保育として大切なことは、この難問を何度も反芻して、個々の子どもがより深く考える(思考する)ことだと私は考えます。話し合いの時間をしっかり確保し、担任が早々に決断しないことです。4歳児の子どもたちは、まだまだ思い付き(ひらめき)で物事を考えます。
このような難題は、くりかえし話し合って、個々の子どもが問題と向き合って苦悩する経験が教育であると考えます。“こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てばこちらが立たたない”しかも、大切にしている生き物の生死にかかわるテーマです。この難題を個々の中で思い悩み、それをクラスの仲間とじっくり時間をかけて話をして深めたことで“仲間とのつながり”も強くなり“バッタ”も「カマキリ」も生かされる、と考えられます。
さてさて、担任は、別の切り口で迫ります。「みんなは、バッタさんとカマキリさん、どっちが大切?」と問うと、考え込んでいた子どもたちは一斉に「両方!」「どっちも!」「バッタさんもカマキリさんも好き!」と元気よく答えて全員一致! どちらも生かすという願いだけを言葉にするだけで、子どもの気分は晴れやかになります。これもまた子どもの素晴らしさです。
「そうか~。みんなバッタさんもカマキリさんも、大切にしたいと思ってるんだね」「でも、カマキリさんにバッタさんをあげちゃったら、バッタさんが死んじゃうし、バッタさんを大切にしたら、カマキリさんが死んじゃうし…。難しいね~。どうしようか?」と担任は、再度、現実を突きつけます。晴れやかになった気分を現実に戻して、苦悩や葛藤に向かわせるためです。
願いは現実に引き裂かれます。「不条理な道理」を何度もなんども問いかけられて自問自答をくりかえすうちに、「生き物が生きること」について、何かを感得してほしいという保育者の側の願いが現実のなかに現れます。まさに「命とは何ぞや」という哲学や宗教のテーマです。
保育者として、たんたんと子どもたちに投げかけながらも、担任自身も答えの無い問いに内心、唸っていました。(弱肉強食…)(食物連鎖…)。(この話し合い、着地点をどうしようか…)。
と、思い悩んでいたところに、Bくんが「じゃあさ、残念だけど、死んじゃったバッタさんを入れてあげたら、どう?」と一言、ポツリ…。すると、その一言に「そうやな~」「そうしよう!」と喝采が沸き、あっという間にお部屋に明るさが戻りました。
担任は「みんな、それでいいの?」「そうしてみる?」「でも死んだバッタさん、探せる?」と語りながらも、担任自身、ほっとしたような軽い気分になり、死んでしまったバッタを入れてみることに決まりました。果たして子どもたちの試みはうまくいくのでしょうか。それとも‥‥。
後日…カマキリは元気にならず、子どもたちは気にかけていました。
この話し合いをした二日後の事、飼っている“バッタ”や「カマキリ」のケースを持って散歩に出かけました。もちろん目的は大好きな虫探しです。到着と同時に虫探しをはじめる子どもたちの姿は、今も昔もかわりません。そしてバッタを捕まえてはケースにいれる姿がありました。
ところがハプニングが起きました。誰かが捕まえた“バッタ”を誤って?「カマキリ」のケースに入れてしまいました。すると元気のなかったカマキリが、すぐにバッタを捕まえてむしゃ、むしゃ―――。子どもたちの目に入ります。「え~~~~~」と固まりつつも、バッタを食べる「カマキリ」を観察。その後、カマキリがとても元気に動き始めました。ケースを覗いてみると、前日、みんなで入れた、死んだバッタは手つかずのまま残っていることに気つきました。
またまた、散歩から帰ってきて話し合いタイム。「カマキリ」は生きたバッタしか食べないということがわかり、またまたまた、みっちり長い話し合いとなりました。飼っている“バッタ”ではなく、「カマキリ」の餌は、狩に行くように散歩に行った時にバッタを捕まえて、一匹だけ“ありがとう”って言って、餌にするということに決まりました。子どもたちが大切に飼っている“バッタ”と「カマキリ」。同じバッタでも、あさがお組で飼っている“バッタ”と狩に出かけて「カマキリ」の餌として捕るバッタはちがうのだ、と身勝手に考えるのが人間社会の姿です。担任は、「子どもたちにわかりやすく伝えるには?」と悩んだそうですが、ていねいに子どもたちと話し合いを重ねて、答えのない問題であることに気づかせるのが真の教育の在り方です。
「生き物を大事にしよう」というスローガンは大事だとは思いますが、園や学校で。生き物を大切にするために「いきものがかり」という単純なことではないことだけは確かです
ニワトリやアヒルを飼育している園や学校があります。一生懸命お世話している子どもたちの夕飯がフライドチキンだったり、校長先生が会食で北京ダックをいただいたり、私たちの生きざまは絶えず矛盾を抱えている。懺悔する必要はないと思いますが、魚や豚や牛の命と引き換えに自分が生きている。図鑑を見なくても誰もが理解していることです。理解している事以上に、時々、立ち止まって深く考えて話し合ってみる、そんな態度が慈しみの気持ちを育むと思います。
けれども、いま、私たちは、日本の一般人が実感している以上に生態系が狂っている現実に包みこまれています。弱肉強食や食物連鎖のサイクルは乱れ、人間の好奇心や探求心や知性と物欲があいまって温暖化が進み(映画『The 11th Hour』推奨)、人間が多くの動植物の生き様を破壊している事実があります。今いる子どもたちの子どもたちのことを考えた教育・保育の在り方に思いを寄せる機会になりました。【エピソード記録提供:池 朝日】