#ユナタン
2歳児ズボンの着脱場面より #ユナタン①
2021年6月28日 月曜日
2021年7月 片山喜章
6月25日まで理事長でした。
私個人の適性は、保育(園)や子ども(集団)について探求することにあります。学識系ではなく実践系です(還暦をすぎても尚、一部の園の子どもからの人気は強いです)。子どもは、良い事、悪い事をします。悪い事をしたときは、しっかり叱るのが正しい大人の態度です、ね。「しっかり叱らないから、子どもに規範意識が育たない」とふつうに考える人は多くいます。果たしてそんな単純な捉え方で良いのでしょうか。
「世界の今」も「これまでの人間社会」も、本質的に倫理や道徳や善悪ではなくて支配欲や利害関係や因襲など複雑な歴史で彩られており、不条理は山ほどあったと思います。一方、子どもの言動を○×問題のように「善か悪か」で判断し、形的に善に導くことが教育と考え「できる、できない」で人間性までも評価する価値基準に、私たちは今も尚、支配されています。
どうして乳幼児期や学童期の子どもには模範となるような言動を求めてしまうのか、それが安心、安全だと邪推してしまっていないのか、まずはそんな大人の認識の点検が必要です。
法人の3つの小規模保育園(1園の定員は1、2歳児で12名)では毎月、合同で事例検討会をしています。先日(6月24日開催)、1つの園において排泄前、自分でズボンをおろさない2歳児のXのエピソードがありました。A先生は「自分でやってみようね」と気長に誘い掛けますが頑なに無視します。「じゃあ、途中まで先生がおろすから、その後は自分でおろしてね」と妥協案を投げかけるとXはおもむろに片方のズボンをおろしかけました。“しめた”と思ったA先生は「すごい」と言いながら自分の手を放すと、Xも手を放してしまいました。
ズボンはXの片足の膝のあたりで止まったまま。(ナンデナン!?)とA先生のつぶやき。
そこでA先生、「じゃ~、こっちの足は全部先生が脱がせてあげるから、そっちの足は自分でしてね!」と妥協案part2。Xは片方の足をA先生にすんなり脱がせてもらいました。けれどもそこでフリーズ…。Xに、もう片方を「自分でおろそうか」と笑顔で誘ってみても、無視、無言、無表情。(ナ、ナンデナンpart2)。で、結局、XはA先生にズボンを両足ともすべておろしてもらって、いざ、トイレにゴー。この間のやりとりは、一体、なんだったんでしょう。
わずか数分の物語のなかに、「生活習慣の自立」「保育者の願いと迷い」「その子らしさの理解と対応」という要素が含まれていることを検討会で確認しました。
***
1、2歳児だけで12名の施設。そこに常時3~4名の保育者がいる。しかも保育室は決して広くなく、当該園では、すべての保育者がすべての子どもを観察できるというある意味、好条件、ある意味、やや窮屈な環境(大人の感覚で子どもは全く感じていない)。
この日の検討会では、2歳児Xの個性(月齢と人となり)について、そしてA先生のこの場面での心の動きについて、他の2園の先生たちとともに考察しました。「生活習慣の自立」は、乳児保育において保育課題の1つであり保育者の願いです。なかでも「着脱衣」は、焦らなくても良いと一般に言われますが、集団保育の現場においては「できれば早く獲得してほしい」と願うのは、古今東西、保育者のしぜんな気持ちです。保護者も家庭ではなかなかうまくできないので「園でお願いします」と園に期待している部分が大きいのも事実です。
しかし、A先生のエピソードを読み解くと、XはB先生の前では、たいていの場合、自分で脱いだり、はいたり、自立しているとのこと。先生によって自分の振る舞い方を使い分けているのです。まさに謎のミスターX。A先生は甘いのか、B先生は恐いのか。Xは、頭のよい子? 使い分けするのは良くない子? みなさんはどう感じますか(実際問題、Xのような大人は山ほどいます)。著名な専門書には「子どもがしてほしい」と言ったら小言を言わずに「とことんしてあげることが大事」とあります(同感です)。「柔らかな心持ちでしてもらった」ことが堆積すると子どもの方から「自分でするから手伝わないで」と「自立」につながると解釈されています。
Xが「ぬがせてほしい、はかせてほしい」といわないのは、先生たちが「それが良くない事」と考えていることをわかっているからかもしれません。しかし「してほしい」と真に願っていることを口外できる事は健全に育つための過ごし方だと思います。となるとXが言えない雰囲気を作ったのは誰? A先生は救世主?(笑) 近頃の小中学生が悩みを口にできないのは、社会から「正論」で諭され、まともに扱われないことに起因していると思われます。
この事例検討会終盤、全員で確認したのは、多様な先生同士の関係性についてです。
「子どもになめられる先生は、良くない」という職員文化を作らない。むしろ逃げ道も大事。「子どもをきちっとまとめられる先生を良い先生と評さない」という価値観を確認しました。保育園は職員同士のある意味、多様性の風土が大事かもしれません。子どもは大人の何倍ものパワーで自分の力で育っていくものです。先生は、乳幼児であっても伴走者です。 Xは、最近、どの先生に対しても「ちてちて(してほしい)」と訴えるとのことです。
魔法の言葉 #ユナタン②
2021年7月29日 木曜日
2021年8月 片山喜章
ある園の2歳児クラスでの出来事です。
ポール(仮称)は、月齢も高く、言葉数も多く、自分からトラブルを起こすことは滅多にない男児です。その日もお気に入りのブロックで彼なりに立体を組んでいました。L字型から凹型に、何やら素敵な箱かビルが出来そうです。その様子を横でジョン(仮称)がじっと見ていました。おそらく自分も同じ遊びがしたくなったのか、ポールのほうに寄って来ました。ジョンは月齢が低くまだまだ言葉で思いを表現できません。活発なポールと言葉よりどちらかと言えば手の方が出てしまうジョンの2人は、ふだんからいっしょに遊ぶ場面が多く見られます。不思議な気がします。じっくり観察していると、彼らは兄と弟のような、つまりポールが主導でジョンはポールからいろいろ学んでいる、そんなふうに見えることがよくあります。
その日、ポールはたくさんのブロックを使っていました。ポールのブロック遊びが気になって寄ってきたジョンに対して、ポールは突然「だめ~!」とジョンを寄せ付けまいと大声を出しました。ポールは「ジョン君、あっち」と言葉で自分の気持ちを伝えて自分の使っていたブロックとテリトリーを守ろうとしましまた。ジョンはそんなことはお構いなしにポールのテリトリーに侵入してきました。「ジョン君、だめ~、あっち」とポールの声。するとジョンはポールを押し倒してしまったのです。そしてすかさずポールの目の前にあるブロックをいくつか掴みました。
一瞬の出来事で止めようもありませんでした。
ジョンは自分が手にしたブロックの1つをポールに手渡そうとしました。きっといっしょに遊びたかったのでしょう。ジョンに倒されたポールは、泣きはしませんでしたが、その場にブロックを置いてジョンから離れるようにさっさと壁際の棚に向かっていきました。そしてそのまま黙って立ち尽くしてしまいました。
このようにポールが遊んでいるところにジョンがやってきて、いっしょに遊ぼうとしても、結局、遊びを壊すような場面は、これまで何度かありました。そして、しばらく壁際で固まっていたポールは急にジョンのところに駈け寄り、ジョンを押し倒してしまいました。ジョンは、ふいを食らった感じで、泣いたり怒ったりせず、 ただ茫然とポールの顔を見つめていました。ポールの方は、何かしら悪い事をしたような気まずい表情になり、花子先生の方をじっと見つめます。花子先生は何も言いませんでしたが、気持ちのなかでは、「いま、ポールはジョンに“ごめんなさい”が言えそうな気がする」という願いを表情に浮かべて、ポールに伝えているようでした。花子先生の気持ちを感じ取ったポールは、戸惑いとも気まずさとも何ともいえないような表情になり、その場で下を向いてしまいました。
ジョンだってポールを最初に押し倒したのに! 花子先生、なぜ、ポールにだけ“ごめんなさい”の言葉を期待するの?
不思議な気がします。この場面を見ていた他の先生たちからもポールに“ごめんなさい”の言葉を期待する表情がありました。
ポールとジョンのいるあたりの空気は重く澱んでいます。そのとき、少し離れた場所に居た百合子先生から「仲良しなんだから」という言葉が飛んできました。それだけです。「仲良しなんだから」という響きは瞬く間に室内に拡がり、ポールは急に笑顔になりジョンをギュ~とハグし、ジョンも嬉しそうにギュ~とし返して、そのまま2人は座り込んで、彼らなりのやり方でブロック遊びに興じることになりました。言葉の意味は理解できなくても、言葉に宿る意味は感じ取れるのですね。
花子先生は、このときのことを振り返ります。ジョンがポールを倒したのは、「いっしょに遊ぼう~」の非言語的な表現で、ポールも実はそれをわかっていたが自分1人で遊びたい思いの方が強かった。ポールがジョンを倒したのは、良くないことだとわかっていた。だからすぐに叱られまいかと保育者の方を見た。しかし、ポールの気持ちを考えると、そこで“ごめんなさい”という言葉を期待するのは、良くない意味での保育者気質。「ごめんなさい」を言うなら、ポールではなくて保育者(花子先生)がポールに成り変わっていう方が良い。2歳児にとって、それが保育者の役割としての「トラブルの仲裁行為」と解せるかもしれない。
しかし、「迷い」「葛藤」満載のあの場のどんより重たい空気を一気に払いのけたのが百合子先生の「仲良しなんだから」というたった一言でした。
保育者の言葉は、多種多様、多彩多岐で、それによって、子どもたちの気分や場の状況を大きく変えます。「指示したり命令する言葉」、「お願いしたり誘ったりする言葉」、これらの言葉は一方通行です。「仲良しなんだから」はなんでしょう。この場面では、まさに、おひさまのような言葉でした、ね。
魔法の手紙とミニポスター #ユナタン③
2021年8月26日 木曜日
2021年9月 片山喜章
ジョージは小規模保育園に通う2歳児です。この園では12名の1、2歳児がワンルームで過ごしています。広くない環境ですが、ここ数年、この広くない環境が子どもどうしの関係性を豊かにし、保育者の存在を身近に感じる分、自分の思いや願いを率直に表現できる、と私を含めた多くの保育者が実感するようになりました。
一方で、広くないスペースですから、遊んだ後は、ある程度、片付けなければ食事の準備ができません。食事の後はすぐに午睡の用意をします。その点は「遊び」「食事」「午睡」のスペースに余裕がある、ふつうの園と異なるかも知れません。子どもたちが午睡から目覚めだすと、すぐにおやつの準備に取り掛かります。ランチの時もおやつの時もおかわりができます。ただし、ランチもおやつもおかわりができる時間(時刻)は、概ね決まっています。この点はふつうの園と変わらないと思います。
ジョージの午睡後の目覚めはよくありません。ほぼ毎日のことです。目覚めた子どもからおやつの準備をし、そしていただきます。ジョージは多くの子どもがおやつを食べ始めた頃に“起床”しますから自分のおやつが食べ終える頃には、おかわりのできる時間(時刻)が大きく過ぎていることが頻繁にあります。そのたびに“おかわりできなかった”と悔しそうに訴えます。
保育者として少し葛藤するところです。集団生活には「流れ」や「ダンドリ」がありますから、決めた時間は守る、守らせたいと考えるのは、保育者としてある意味、しぜんなことです。
実際には「おかわり終了時間」の2分後くらいまではOKしている現状もあります。1、2歳児に型通りにその時刻になれば「終了する」と決めるのは、良い保育といえるでしょうか。
一方で、おやつスペースを片付けて、おやつを終えた子どもたちの遊び場づくりをしなければなりませんから、悪い保育ということはできないと思います。しかも、おやつをあたえないというのではなくて“おかわり”というオマケがない、ということなので、園生活の全体の流れを鑑みると、仕方ない、と割り切ることはしぜんだと考えます。
このルールは毎日のことなので、子どもたちも時計を毎日眺め、それなりにルールを感得しているので、ある程度、習慣化しています。1、2歳児といえども何となくルールがあるという空気を感じ取っている姿や様子を見て、ある意味、凄いな、と感じます。
ある時期、ジョージは、おかわりができない日が数日続きました。さすがに、その日は「おかわりしたかったよ~」と泣きました。「もうちょっと早くおやつにおいでね」と言葉を掛けても納得がいかない様子。何か良い手立てはないものかと思案する保育者たち。それまでにも早く午睡から目覚めるように促していたのですが、ぐずってうまくいきませんでした。
その日、花子先生は、「そうだ、お手紙書いてあげよう」と言って(?)、紙を取り出して、その紙に「おかわりがしたかったよ~。くやしいです!」とジョージの気持ちをそのまま文字にしました。「ジョージ君の気持ち、みんなに見てもらう?」と言って『手紙』を手渡すと「うん!」と答えて泣き止みました。そして周りの保育者や何人もの友達や迎えにきた保護者にも『手紙』を喜々として見せながら、自分の気持ちを言葉で伝える姿がありました。
するとどうでしょう。翌日、ジョージは午睡後、自分から早めに起きました。そしておやつを食べた後、“おかわり!”と保育者のところにやってきます。制限時刻内です。ジョージは大喜びです。ジョージはほんとうの意味での午睡からの起床~おやつの時間~おかわり可能な時刻の関連を体得したようで、その日以来、ほぼ毎日、おやつをおかわりしています。言葉ではなく、読めない、意味も解らない文字が連なる『手紙』という「見える物」にするだけで、どうして、こんなに心境の変化が生じるのでしょう‥…? 不思議な話はここで終わりません。
その後、オムツから布オムツに移行するときのことです。ジョージはとても嫌がる時期がありました。しかし、いざ、履かせてもらえば嬉しそうにして過ごしていました。そこで花子先生はまた考えました。今度は手紙にするのではなくて、ジョージが布オムツを履いて得意気にポーズをとっている姿を写真に撮ってミニポスターにして保育室(外からは見えない場所)に貼ってみました。「あ!ジョージくん!」「かっこいいね!」と友達や保育者から注目を集めます。気を良くしたジョージは、自分から布オムツを履くようになりました。それを見ていた他の2歳児の子どもたちも自分の布オムツ姿をミニポスターにしてもらうことに憧れ、布オムツを履きたがるようになりました。自分のカッコイイ姿を写真や動画にしてもらうことが意欲や動機になる、といえそうです。保育者が、やさしい言葉で促す以上の「効果」ともいえそうです。
少なくとも10年、20年前とは、子どもが体感する生活環境は激変しました。YouTube等で観る物が憧れの対象になり、それに対する模倣欲は自主性、主体性を伴って活動欲全般に拡がります。種の会の4歳児のバルーン演技は「動画の模倣」ではじまり、自分たちの演じる姿が動画化され、くりかえし視聴することでクラス全体の練習意欲が高まります。「練習といえば嫌々させられるもの」という昔からある固定観念を再考する時期が到来しているようです。
グループの仲間だからこそ #ユナタン④
2021年10月15日 金曜日
2021年10月 片山 喜章
法人内のある園の5歳児クラスでは、当番活動として生き物のお世話を行なっています。前年度の5歳児から引き継いだ小動物や、4歳児から一緒に“進級”した虫たちなど、カニ、カタツムリ、メダカなど、たくさんの生き物が“クラスメイト”です。
みんなで話し合い、5つの生活グループが日替わりでお世話をすることになりました。そこで1つのグループで起きたある日のナラティブ(物語)です。
当番活動がはじまってしばらくすると、ダイヤグループのトムくんの様子が少しおかしいのです。生き物にほとんど関わらず、当番の日は早くお迎えに来てもらっていることもありました(活動は16時以降)。
以前から気になっていた花子先生は、トムにゆっくりと尋ねてみると、「虫が苦手やねん」「時間が長く遊び時間が少なくなる(当番をしながら長時間生き物と遊ぶことがある)」とのことです。花子先生はトムには何も答えず、「そんなトムの気持ち、グループの仲間(全員で6名)は知っているの?」と尋ねました。「誰にも自分の気持ちを言ってない」と答えたので「どうする?」と突っ込んだところ、トムの方から「一回、みんなに言ってみる。けど、先生も一緒にいてほしい」。トムが、自分の気持ちをみんなに伝えたいと答えたので、グループで話し合いの時間をもちました。
花子先生「トムがみんなに聴いて欲しいことがあるんだって」
全員「いいよ~なに~?」
トム「あの~虫のお当番、シンドイ、やめていい?」
少しの沈黙の後、エバが口を開きました。
エバ「何がシンドイの?」
トム「虫を触るの、怖いねん」
エバ「カタツムリ? メダカ? カニ?」
トム「ぜんぶ」
エバ「ぜんぶ? カニはハサミがこわいん?」
トム「挟まれたら嫌やから」
マイケル「カタツムリはべたべたしてるもんな」
トム「そう、手に乗せるたら、べちょべちょになるもん」
ララ「わたしも苦手。可愛いけど、手に乗せたらべちょべちょになるもん」
エバ「ララは苦手やから、蓋に乗せてるよな~」
キキ「わたしもカニ怖いけど、エバに持ち方教えてもらって触れるようになったで~」
トムは、ただ聞いているだけで何もいえないままでした。そんな空気を読んだエバは少し間をおいて「他に何か嫌なことある?」と話を変えました。
トム「お当番の時間が長いから遊ばれへんのが嫌や」
エバ「でもさ、たくさん虫いるから時間かかるねんな~」
マイケル「お世話もやけど、カタツムリと遊んであげないとかわいそうやしな~」
エバ「トムまだ嫌なことある?」
トム「もうない」
エバ「虫のお当番だけ嫌なん? 他のお当番は? ホウキとか、靴箱とか、雑巾とか、給食とか、朝の会とかあるけど…」
トム「虫のお当番だけや。他のは楽しい。だから虫のお当番、やめてもいい?!」
全員「……。」
トムがお当番を辞めたい理由は、虫が嫌いでしかも時間が長いことだと、グループの仲間は理解したようです。花子先生は改めてトムの気持ちを確認しました。グループの仲間は一瞬、黙ったまま、あれこれ考えを巡らせていました。すると…
マイケル「あのさあ、トムにやめてほしくない。なんでか言うと、虫さんたくさんいるから大変やもん。キキちゃんも早くお迎え来るし、ボビーもスイミングで早く帰る日あるし、トムもお迎えが早い時があるから、3人とかでお世話するん大変やから、やめてほしくない」
エバ「エバもやめてほしくない。エバもめんどくさい時もあるし、遊びたい時もあるけどお世話しないと死んでしまうやん。もう死んでほしくないし、このグループみんなでしたい」
キキ「キキも虫のお世話、大変やけどやめてほしくない」
ララ「ララもトム、やめるんは嫌や」
ボビー「ぼくはお世話するの大好きやけど」
エバ「そしたらトムがお当番、やめてもいいん?」
ボビー「……」。
そこで花子先生は、トムに尋ねてみました。
花子先生「みんな、トムにお当番、やめてほしくないみたいけど、トムはどう?」
トム「…でも、やめたい」
エバ「でもさ、エバもめんどくさい時あるけど、お世話しなかったら死んじゃうで。みんなでお世話しようと決めたやろ?」
トム「虫触るの苦手やし時間も長いし…」
エバ「じゃ~さ、トムは何やったらできるん?」
子どもたちの話し合いの方向が少し変わってきました。
キキ「トム、水槽とか水草とか石を洗うのやったらできる?」
ララ「トム、前、それしてたやん」
エバ「虫を触るの嫌やったら、エサいれたり、お家、きれいにしたりとかやったらできる?」
トム「それやったらできる」
エバ「えっ! できるん! じゃ~カニ、エバが持ってあげるから言うてな」
キキ「トム、ほんまにできそう?」
トム「うん、できる!」
その後も、話はぐんぐん深まり、みんなはトムを励ますように、「こんな時はぼくが…」「そんな時は私が…」とトムへのヘルプやフォローの話で盛り上がりました。まだまだ話は続きます。今度は、お世話のついでにその場でだらだらと遊んでいること、お世話から“解放”されるのがいつか、ということについて審議していました。
マイケル「カタツムリさん、可愛いもん、ずっと遊んでいたい」
花子先生「他のみんなはどう思う?」
トム「早く終わって他の遊びしたい」
全員「……」
エバ「だってそこに時計ないからわからへん」
実際、お当番活動は、お世話をしながら、生き物と遊んでしまうことが多く。毎回45分間くらいかかっていたようです。トムはそれも嫌だったようです。
そこで「どうしたらいい?」という花子先生の問いに、まず「自分たちで決めるから」と言って、話し合った末に、“16時から16時30分までとする”と決めました。見える場所に時計はありますが、エバは「先生、長い針が6のところになって忘れてたら、教えてな」と念押しもしていました。話を始めて終えるまで40分以上、経過していました。
5歳児にもなると、これくらい筋道を立てて自分の思いを表現し、相手の気持ちを理解し、対話することができるのです。
そのためには保育者や保護者である大人が、普段から、それこそ、1、2歳の頃から、「何がしたいの?」「どちらが良いの?」「どう思うの?」「どんな気持ちでいるの?」と常に問いかける保育を基本にしていないとこのような子ども文化は育まれないでしょう。
まだまだ日本各地では子どもに問いかけても結局、大人都合の答えに誘導したり、逆に不本意だけど子どもにおもねたりするケースが多いと思われます。トムの思いや願い=“わがまま”は、保育者が判断することではなく、グループの問題ですから、当事者で長い時間をかけて“子どもらしい”対話することで解消しました。
子どもに寄り添うとは、子どもの言いなりになることではなくて、一人ひとりの思いや願いを丁寧に傾聴することから始まります。あとはお当番という子どもたち自身の生活の世界のことですから、解決のための対話を促す、これが保育者(大人)を大きな役割です。
子ども(たち)を1人の人間として認めるマインド(度量)を保育者は体得し、保育者自身が「豊か(成長)になること」と「子どもたちの問題解決力」は並走するものだと思います。
子どもに寄り添うことは、時には心地よく、時には疎ましく、時には忍耐が必要であり、最後には、私自身が変わることである、と気づかされることがよくあります。
「ルール」と「わがまま」と「寛容」 #ユナタン⑤
2021年11月9日 火曜日
2021年11月 片山 喜章
ある園の3歳児クラスの生活グループは、5人1組の固定メンバーです。
毎日まいにち、1つのグループから1人ずつお当番が選出されて(5回に1度まわってくる)、給食・おやつの準備を担います。日めくりの当番表があり、朝の集いの時にめくると「今日のお当番」の子どもの名前が出てきます。
お当番は誰もがやりたい活動です。
5歳児なら輪番制のルールが理解できるので、トラブルはおきません。しかし、3歳児の場合、当番表に自分の名前が出てこないと泣いて悔しがる子もいて、その都度、話し合ってきました。
ふつうに考えると順番というルールがあるので、「それに従わないのはダメ」という正論でその子の「したい」という申し出は却下されるでしょう。
しかし、この園には、子どものわがままともとれる主張を一蹴しないで、グループの子どもたちに投げかけて対話するという、伝統的な風土があります。
ある日、サンズは、前日にお当番をして楽しかったので「今日もしたい」と訴えました。当然、当番表には違う子の名前がありました。サンズはひどく泣きましたが、「お当番ちゃうやろ!」「昨日したばっかりや!」とマルテやロハスから厳しい口調でなじられました。
一方、テルは「サンズ、お当番したいんやな?」としっとりとした口調で彼の気持ちに共感していました。結局、彼のわがままは通りませんでした。それでも花子先生はサンズに「お当番できなくてもいいのね。納得したのね」と念押ししました。
ルール違反、即、却下ではなくて、当事者同士で対話を重ねるうちにサンズを慰めたり、励ましたりする言葉が、グループの仲間たちから出てきたという場面もありました。3歳児らしさと言えるかもしれません。
それから半年後のある日、なぜか、サンズはお当番でもないのに「自分がしたい」と泣きながら花子先生に申し出ました。
花子先生は“ああ、またか~”と思いつつ、「自分でみんなに言ってごらん」と促しました。
サンズは語気を強めて「お当番がしたい!」と泣きながらグループのみんなにお願いするように言いました。この時もマルテは「お当番とちがうやろ~」と返しましたが、小声でした。
以前に比べて明らかにグループの雰囲気は違いました。『ルールを守ろう、わがままを言うな』というような硬い空気はなく、グループのメンバーは困った様子でした(大人社会では、絶対、ありえないことです)。
その日のお当番はロハスでした。ロハスはあれこれ考えたあげく「サンズ、ほんまにお当番したい?」と尋ねました。サンズがうなずくと、「じゃ~2人でいっしょにする?」とサンズを誘いました。
サンズは、満面の笑みをたたえて「やったー!」と飛び跳ねました。テルは「“やったー”とちがうやろー。“ありがとう”やろー」とサンズを戒めました。
花子先生は、にわかに信じがたく、ロハスに「ほんとうにサンズといっしょにするのでいいの?」と確認を取りました。サンズは機嫌よく快諾しました。
すると、テルが「そやけどエプロン1つしかないで」と、お当番活動の必須アイテムであるエプロンがグループに1枚しかないことに気づきました。
対話が振り出しに戻りそうな空気が流れました。花子先生は本当に困惑して、グループのみんなに再び「どうする?」と尋ねてみました。そこに「ジャンケンしたら~?」の声。サンズは「負けたらできひんやん」と泣き出しそうになりました。
マルテは「話をして決めたらいいやん」と言い、5人の仲間たちは保育室の隅っこの方に行って、自分たちだけでこそこそと話し込みだしました。花子先生は、どんな結果になるか予想もつかず、ただただ距離をおいて見守るしかありませんでした。
しばらくして彼らは戻ってきました。
結論は、『給食は、当番ではないサンズがエプロンをして行なう。ただし、おやつは、本来お当番だったマルテがする』ということでした。花子先生はマルテに「ほんとうにそれでいいの?」と尋ねましたが、「うん、いいよー。おやつの時、エプロンできるもん」と答えました。一体全体、どんなやりとりがあったのか、それは謎です。
3歳児の子どもたちの誰もがやりたがるお当番活動。
そこで不公平にならないよう、輪番になるよう、日めくりの当番表を設けました。いわゆるルール作りをしました。半年前は「ルールだから」ということで、サンズのわがままを仲間たちは許しませんでした。
しかし、今回、サンズの気持ちを理解したうえでの対話がなされ、彼のわがままを認める結論を、まさに子どもたちだけで出し、全員納得に至りました。3歳児とは思えないようなやりとりです。
もしかすると、グループの仲間のお椀やコップを配膳するといった本来のお当番活動以上に、エプロンを身に着けることに“憧れ”を感じていたのかもしれません。
5歳児ならお当番活動は役割として使命感をもって行ないますが、3歳児にとっては少し事情が異なるようです。
サンズのお当番をしたいと必死の訴えを「わがままだ」「ルール違反だ」と感じる感性よりも、「涙を流して訴える姿を何とかしてあげなきゃ」という仲間意識の方が勝ったのかもしれません(3歳児の彼ら自身が本来、わがままです)。
みなさんはこのエピソード、どのように思いますか。