ユナタン

週刊メッセージ“ユナタン2-42”

2018年4月25日 水曜日

【ユナタン2-42】

~ 思いを伝え合うことが解決策 ~

2018年4月25日  片山喜章(理事長)

  なかはらこども園(神戸)の去年の3歳児クラスの出来事です。
昨年12月、3歳児のマッチとトシとヨシオの3名(いずれも仮名)がお医者さんごっこをしてよく遊んでいました。よく遊んでいる!ということは同時にトラブルも起こりうる!という事です。そのトラブル体験(ケガのリスクは回避)は保育者の「見守る介入」によって良い育ち=教育になりえます。今回は、その事例です。

予想通りトシとヨシオが注射器を使い始めると、マッチはお気に入りの注射器が欲しくてほしくて何の断りもなく奪い取ってしまったのです。もちろんトシもヨシオも黙ってはいません。マッチから取り返そうと言葉で応酬します。するとマッチは2人を交互に叩き始めました。その途端、トシは声をあげて泣き叫び、ヨシオはその場から逃げ出して先生のところへ駆けていき、マッチの乱暴を訴えたのです。

「どうしたかったの?」と先生は、3人それぞれに尋ねましたが、3人とも“欲しかった”と答えるだけで話はすすみません。ここで先生の介入の仕方が問われます。このケース、「解決の主体」は先生なのか、3人の当事者なのか、そこが保育のポイントです。例えば、先生がマッチに「叩くのはダメでしょ。お口で言ってね」「順番に使おうね」と諭すのが一般的ですが、当事者どうしのトラブルに先生が立ち入って裁くことが果たして教育と言えるでしょうか。みなさんは、どう考えますか。

先生は、特に「こうすべきでしょう」と断定的な提案をせずに「何か嫌なことがあったらお友達を叩かないで、センセイに話しにきてね」「ちゃんと聞くからね」とマッチに話し、トシには「嫌なことがあったら、泣かないでお話してね」ヨシオには「トシが嫌なことをされたら、マッチにお話ししてね」と伝えました。
つまり“トラブルで生じた気持ちは聞いてあげるけど、解決するのは自分たちだから話し合って、解決してね”というメッセージを送りました。事あるたびに同様のメッセージを送り続けました。“3歳児にはムリ”“先生が言って聞かせる事が教育”と考えるのが常識ですが違います! トラブルにならないように大人が言って諭すことよりもトラブル後、当事者の心に生じた気持ちを当事者間で話し合いながら、解決しようとする“意識”や“行為”を促すことが本物の教育だと思います。
それから、3か月を経た今年の3月のことでした。マッチ、トシ、ヨシオの3人はまたお医者さんごっこをして遊んでいました。そしてまたまた注射器をめぐってマッチとトシが取り合いをはじめたのです。ヨシオは仲裁に入りましたが、無理と判断したのか、また、先生に伝えにいきました。まさにデジャブです。

少し迷った先生は、子どもたちの話を逐一聞くことをやめて「3人で話し合うことはできる?」と尋ねました「できるっ」「できる~」と声が返ってきました。
そこで3人の傍で逐一話を聞くのか、それとも距離をおいて子どもだけで話し合うのを見守るのか思案しました。あれから3か月“子どもたちだけでどんな会話をするのか聞いてみたい。どうにもラチがあかないときは自分が関わってみよう”と腹をくくって「自分たちで話し合ってくれるかな」「後でどうなったか教えてちょうだい。先生聞くからね」と伝えました。先生は少し距離をおいて子どもたちの様子を観察します。子どもたちは“見られている”と感じているようでもありました。

3人だけで話をする姿が見られて、先生は嬉しくなりました。時折、話し合う声が漏れ聞こえてきます。「ツカイオワッタラ~…」「サキニ~…」。マッチとトシがデュエットでもしているかのように交互に話しています。その横でうなずくヨシオの姿は、まるで、2人に合わせて伴奏しているようで‥‥…。それから5分が経過しました。

マッチとトシがやってきました。さてさてどんなふうに解決したのでしょう。
マッチ:「先に、トシに貸してあげる。トシが使い終わったら貸してもらう」
トシ :「先にぼくが使うことになった。使い終わったらマッチに貸してあげる」
先生は「ホントに納得した?」と尋ねました。子どもの「答え」に突っ込みを入れることで思考力が一層刺激されるからです。2人とも笑顔で「ウン」と答えます。
その後、トラブルもなくヨシオを交えた3人で注射器を使って遊んでいました。お医者さんごっこだけでなく、大人に口出しされずに話をして合意をつくり出せた経験(結果は二の次)も3人の子どもにとって有意義(教育)だったと思います。
保育の場面だけでなく社会全体の物の決め方として大切にしたい事です。
それにしても、この注射器、中にどんな良薬が注入されていたのでしょう?!
【資料提供:なかはらこども園:牛島夢恵】
※ 今後、ユナタンは毎月、第2、第4水曜日に発行・配布します。
次回(5月9日)は、みやざき保育園(川崎市)から【事例】をいただきます。

週刊メッセージ“ユナタン3-43”

2018年5月9日 水曜日

【ユナタン3-43】
~ 取り合い~譲り~譲られる葛藤 ~

2018年5月9日  片山喜章(理事長)

「道徳」が教科になったことで様々な議論が巻き起こっています。昨今の世界情勢や政治問題、企業の不祥事を見聞きしている子どもたちは、何を感じているでしょう。とりあえず大人の前ではお利口さんに振る舞う術を会得し、ある時期、ある場面で爆発する。そんな副作用を案じます。「道徳」の教科化は子どもの人権や能力に対する社会の過少評価の現れだけでなく、明日の日本や世界に対する私たち自身の漠とした「不安の解消策」の1つではないかとも感じています。

幼い子には“良い”“悪い”の価値観を伝える事が教育であると理解されているようですが、道徳や倫理は(他者の中の)自己の生き方を自問自答するような経験を重ねながら感じ取り学び得るものだと思います。子どもどうしの関係の中に学びの場があり、大人は口出しする前に葛藤する時間をあたえて見守る事が大切だと考えます。今回は、その見守った例です。今年1月の朝の乳児の保育室でのことでした。

朝夕は、0歳児から2歳児まで合同で「コーナー保育」をしています。
0歳児クラスのミイ(仮名:1歳10か月女児)も、2歳児クラスのケイ(仮名:3歳1か月女児)も「おままごとコーナー」で互いに影響を受けているような、いないような、乳児ならではの微妙な関係性、空気感で過ごしていました。(朝からごっこ遊びが大賑わいでスゴイな。乳児も異年齢のコーナーで過ごすのはなかなかいいものだ)と0歳児のミイの担任は微笑ましいその光景を眺めていました。

突然「ぎゃー」「ギャ~」と叫び声が飛んできました。ミイとケイがポットの取り合いをしています。どちらが先に持っていたのかは定かではありませんでした。
ミイは「ぎゃーぎゃ~」と叫びながら手を放さず、ケイはケイで「だめ、これは私が使ってた!」と大声を出して主張し、1つのポットにくっついた2つの手は、拮抗状態を保ったまま、双方譲らず、叫び声だけが響き渡ります。
担任はただ黙って見守りました。ケイはミイの担任の視線を気にしたか、ごく自然に手の力を緩めてしまったのです(さすがお姉さん?)。ポットはケイの手から離れ、ミイはグイっとポットを引き寄せて我が物にし、表情は興奮気味でした。
ポットを譲ってしまった2歳児のケイは「うわ~ん」と激しく泣き始めました。
ケイはとっても悔しそうです。ミイを恨めしそうに睨みながら泣き続けます。睨まれた方のミイは首を横に振りながら後ずさりします。殺気みなぎる光景です。
ポットを手にし、思い通りになったはずなのにミイの表情は固いまま。で、目はじっとケイを見つめています。担任は殺気を取り除くかのように笑顔をこしらえて、ミイに「ケイちゃん、泣いてるね」と話しかけました。けれども年下のミイは年上のケイから目をそらさずにポットを手にしたまま立ち尽くしています…。どうなるのだろう…と担任は黙って様子を見守ることにしました。するとミイはゆっくり、ゆっくり、とケイに近づいていきました。(おや?どうする!)

0歳児のミイは(考え抜いた揚句)、重苦しい表情で「ハイ、どうぞ」とポットを年上のケイに手渡したのです。(やさしい!?)“自分が泣かしてしまった…。ポットを返した方がよさそうだ‥”と年下のミイがそう感じ取って譲ったように見えました。そしてすぐ担任の胸に飛び込んで〔ハイどうぞシタヨ〕と片言で報告します。けれどもその表情はたいそう落ち込んでみえました。そのあと、ミイの姿は担任の膝のうえに在りました。顔を担任の胸に押し付けていました。
10分後、2人に明るさが戻ってコーナーに居ました。ミイもケイもその後、何もなかったように、それぞれがそれぞれに朝の時間を愉快に過ごしていたのでした。

譲ることが尊いとは限りません。まして0歳児、2歳児はどうでしょう。双方とも強い葛藤の末の不本意な選択だったに違いありません。なぜ譲ったのでしょう。
担任はミイの母親的な存在です。ケイは「自分がお姉さんだから・・・」と感じたのでしょうか。ミイも担任が傍に来たので「譲らなきゃ……」と抑制の気持ちをはたらかせたのでしょうか。もしも担任が折り合いを付けてほしいと願い、言葉で「譲り合い」の規範を伝えたらどうなったでしょう。担任も葛藤しながら見守ったことで2人には“自分で深く考える経験≒葛藤”を味わえたのかもしれません。

このケース、担任の目の前で双方がつかみ合いに至ったとしても、その経験は有意義だと思われます。正解はなく複雑な心模様を描いてこそ道徳心の芽生えです。
「信頼できる大人の存在と葛藤し見守る態度」≒「規範の代替」であり、それが「強い葛藤」≒「道徳心」を双方にあたえた良い事例だった、と私は解釈します。
【資料提供:みやざき保育園(川崎市):池田麗佳】
※ 次回5月23(水)は、ななこども園(大阪府)です。

週刊メッセージ“ユナタン4-44”

2018年5月23日 水曜日

【ユナタン4-44】
~ 思いやる気持ちはどこから? ~

2018年5月23日  片山喜章(理事長)

前回配布(5月9日)の【ユナタン3】では、0歳児のミイと1歳児のケイが朝の室内遊びの中で玩具のポットを取り合う場面を紹介しました。自分も相手も共に譲れない葛藤場面で“保育者の包みこみ”によって双方が“葛藤状態”を和らげ、最後に譲ったケイが担任の胸のなかで興奮を鎮めて納得の表情を現わしました。
それを0歳児(満1歳)なりに道徳心を感得したように思いました。子どもどうしがトラブルになった時、自分の気持ちを伝えながら相手の気持ちも理解して双方が解決に向かおうとする空気の醸成、ここが保育の最も難しいところだと思います。

子どもに限らず人はトラブルに出遭うとカッとなって心が荒れます。荒れた気持ちは、それを理解して落ち着かせてくれる誰か(何か)が居なければ回復しません。決まりやルールを言葉で教えられだけでは感得には至らないどころか、教えた人との関係性によっては、善悪をわかっていてもさらなるトラブルを引き起こすこともありえます。現代人の感受性はよりデリケートになり、その傾向は顕著になった。そんな社会観、人間観、子ども観、教育観、保育観を抱いているところです。
今回紹介するのは、今年2月末の1歳児の姿です。どうしてこのような“思いやりのあるような行動”が現れ出たのか、私なりに解釈してみました。

1歳児クラスのお部屋の隅から笑い声が聞こえてきます。ミキ、ユミ、コウジ(いずれも仮名)の3人が“ままごと”をしていました。3人は“しゃもじ”を手にしておしゃべりしながら笑っていました。楽し気な様子に気づいたヒトシ(仮名)は“ままごとコーナー”の“しゃもじ入れ”をのぞきました。自分も仲間に入れてもらいたかったのです。ところが、“しゃもじ入れ”の中は空っぽ。「なぁーい」と声をあげたヒトシは、3人に向かって「かしてー」と訴えます。コウジとユミはそれを聞いて「あかん」と言って走りだしました。「かしてー」とヒトシは2人を追いかけます。2人とも「あかん…、あかん‥」と笑いながらまるで追いかけられることを楽しんでいるようでした。ヒトシは今にも泣きだしそう。その様子を見ていたのは担任と、もう1人、ミキでした。

担任はすぐにヒトシの傍へ行って「ヒトシくん、貸してって上手に言えたね」と声をかけました。ヒトシは再びコウジとユミに向かって「かしてー」と言いました。
「おともだち、まだ遊ぶかなあ。貸してもらえなかったね。残念だね」と担任がヒトシの気持ちに共感するとヒトシは声を荒げて「かしてー」と泣きだしました。
と、その様子を見ていたミキは自分が持っていた“しゃもじ”を“しゃもじ入れ”の中に入れてからヒトシの傍まで行ってツンツンと肩を突いて「ヒトシくん、あるやん」と言って“しゃもじ入れ”を指さしました。ヒトシは「えっ」と怪訝な表情で“しゃもじ”が入っているのを確かめました。 さて、それから・・・

なぜ、ミキの思いやりの行動が現れ出たのでしょう。担任は「ミキの粋な計らい」と綴っていますが、おそらく日頃の保育スタイルと保育者の基本姿勢が強く影響していると考えられます。どのクラスもグループを基本に過ごしているのです。
1歳児は3人1組の固定のグループで1つのテーブルを使います。ご飯の時も3人が揃うまで待ちます。揃わない時はそれに気が付いた子が誘いに行きますが、担任は自分から声掛けせずに、子どもが気づくような微妙なかかわりを意識します。お茶を飲む際もテーブルの中央に重ね置きされた3つのコップをメンバーの誰かが配ります。誰がするのか決まっていませんが、毎日、誰かがする。それが不思議です。

してあげるorしてもらう。子ども同士がアウンの呼吸で役割を担います。トラブルもありますが毎日くり返されます。ここが鍵です。してあげた子、してくれた子、双方の顔も名前もはっきり理解している日々が“思考力”を育て“思いやり”の源泉になっていると解します。「家族的な」とはまさにこのような状態を差すのかもしれません。3歳、4歳、5歳児では「自分たちの事は自分たちで決めるルール」が日常の柱になっています。1つの事を決めるのに日課のように40分から50分の時間をかけて話し込む姿が見られます。小さな声でゆっくり納得いくまで話し合いを促す保育者の姿を、いつも目にします。観ている私の方がイラッとするくらいです。この園文化が子どもの思考力向上を下支えしていると実感(体感)しています。

それから……ミキは仲間と遊びたかったのです。追いかけ合いを見ていても楽しくないと感じたミキは自分の“しゃもじ”を“しゃもじ入れ”に突っ込んでヒトシに取らせて遊びの続きをしようとしたのでした。思いやる気持ちというより思考力の芽生えです。それは子どもの行為と自身を洞察する担任とグループを強く意識した子どもの世界の方がより確かに育まれるのではないか。子どもの姿を眺めながら、そんな風に思考します。 【資料提供:ななこども園(大阪府:藤井寺市)山本美千代】
※ 次回は6月13日:池田すみれこども園(大阪府寝屋川市)の予定です。

週刊メッセージ“ユナタン5-45”

2018年6月13日 水曜日

【ユナタン45】
~ おまけの おまけの きしゃぽっぽ(ノンタンシリーズより) ~

2018年6月13日  片山喜章

5月の晴れた日、3歳児クラス黄組は隣接する公園に出かけました。公園にはブランコがあります。4台のブランコは行儀良く並んでいました。そこへ子どもたちがどっと群がります。園にはない遊具なのでトラブルが予想されます。ということは保育として好機が訪れたと解釈できます。サリーは“自分が!乗りたい”という思いを強く現わして友達を次々に跳ねつけます。友達に向けて手を振り上げようとしたその時、先生はその手をつかんで止めました。するとサリーはその手を払いのけて睨みつけます。サリーの目からは涙がこぼれています。憤りやら悔しさやら自戒の念やらが混じりあって胸がいっぱいです。そして、思いのすべてを吐き出すように「バーカ」と言い放って別の場所に駆けだしたのでした。

 5分くらい時間が過ぎて、サリーはまたブランコのところに戻ってきました。
“やっぱりブランコに乗りたい”。でもブランコに乗るには“友達に乱暴に振る舞ってならない”。けれども早々に素直にはなれない。それでも“素直にならないとブランコには乗れない”。“友達は受け入れてくれるかな”“どうしよう”。 
少しの間、ジトっとブランコを漕いでいる友達を眺めていました。サリーなりの葛藤が痛いほど伝わってきます。サリーは意を決したのか、強い調子で「貸~し~て!」と言いました。友達は知らんふりです。ふたたび「貸~し~て」。やはり返事がありません。サリーがベソをかくような表情で立ち尽くしていると隣のブランコの前にいたベティが「キキちゃん、そろそろ替わってもらえる?」とお願いする声が聞こえました。キキは「いいよ~」と返事をし、すぐに交替したのでした。

その様子をじっと見ていたサリーにとっては驚きの光景だったかもしれません。
サリーは思案して…しかし思い切って「ララちゃん、そろそろかわってもらえる?」と言葉にしました。その言い方は穏やかでした。ララはサリーの顔を見つめて一瞬、間をおいて「いいよ」と返しました。で、さっとサリーと替わってあげたのでした。 
なぜでしょう。ある程度、ブランコに乗って満足したからでしょうか。少し飽きたからでしょうか。さっき乱暴だったサリーが今度は殊勝な表情をしているのを見て譲ってあげようと感じとったのでしょうか。いずれにしても先生の介添えが無い状況でしぜんに“交替しよう”という空気と気持ちが生れたのでした。
念願のブランコに乗れた事とララに替わってもらえた事が相まってサリーは嬉々とした表情でブランコを漕ぐことができました。すると隣のブランコから「わあ~」と笑い声がします。キキがベティの背中を押してブランコが大きく揺れたのです。笑い声は連鎖を誘引します。その隣でも待っている子が漕いでいる子の背中を押しました。サリーも「だれか、おして~」と声を張り上げます。何人かの子が近寄ってきました。サリーは背中を押してもらってご機嫌です。しばらくすると端っこのブランコから「こうた~い」の声がしました。交替する行為も連鎖します。わずか15分前に「バーカ」と毒づいていたサリーも交替してあげていました。

「交替する」「順番を守る」などの規範は「お題目」のようにくり返し言ってきかせることで体得できると信じる人は年配に限らず若い世代にも多いです。「型の文化」 「形」を重んじる慣習などの日本の文化をそのまま人間教育にも当てはめようとする教育関係者の思考そのものが誤謬であり教育界の怠慢だと思います。それが結果的に逆効果になっているのが現代です。不祥事続きの国や企業や部活の組織文化の根底にあるのは、真の規範意識の希薄さと事なかれ主義と上意下達の価値観です。“思いやり”を授受し合う体験と関係性が規範意識を育むと考えたいですね。

「ブランコは順番に交替して乗りましょう」という言葉はどんな子でも頭の中で理解できます。時には叱られて頭で理解しても心持ちとして人間性のなかに溶け込まなければ育まれないと思います。この日のサリーの体験はどうだったでしょう。
元々サリーの中で眠っていた規範意識が仲間たちとの物語によって浮かび上がったように思います。乱暴な振る舞いが改まらない子どもの姿は、その時々の気持ちに寄り添えなかった大人たちの振る舞いの賜物でしょう。現代社会に適応できていないのは、成熟が待望されるのは、多数派を占める今の大人たちの人間性です。

その後、公園では1台のブランコに複数の子どもたちが群がっていました。順番を待つ子も増えています。「順番なんやで~。背中押して~、順番なんやで~」といきいきと響いていたのはあのサリーの声でした。先生から教えられた言葉としての「じゅんばん」を叫んでいるのではなくて“順番を守ることでみんなが同じように楽しめるんだ”と体感しそれを全身で表現している、そんな感じ方、受けとめ方ができる大人に育ちたいものです。   【資料提供:いけだすみれこども園:溝上宏子】
※ 次回、6月27日の事例提供は世田谷はっと保育園です。

週刊メッセージ“ユナタン6-46”

2018年6月27日 水曜日

【ユナタン6-46】
  ~ 流されるような風景の意味を探る ~ 

2018年6月27日  片山喜章

子どものすべての行動には、それなりの意味があり、それを子ども(の育ち)の側に立って理解し寄り添う事は保育の重要なテーマです。しかし実際、日々の保育の流れる時間の中で、いちいち立ち止まって、そんな心持ちで実践するのは、並大抵なことではありません。一方で「ダメな事はダメ」というごもっともな考え方があり、子どもの行動の意味を理解しようとしないまま、禁止あるいは叱責する場面もみられます。ご家庭においても、特に乳児の場合、ほんとうに科学者のように探求心から生じた好ましくないような行動に対して、それに替わる代替物や代替活動を提供されないで「それは大事なものでしょ」「それは危険でしょ」のひとことで「ダメ」といわれ叱責され、貴重な実験の経験を奪われたまま成長していきます。
今回のエピソードは、特に“何事もない”、実に平凡な風景です。保育の中では生れて消えて保育者からも流される場面かもしれません。しかしそこにも子どもの精神活動は存在します。そこから子どもを理解すると、もしかすると新しい見地で子どもの姿が見えてくるかもしれません。

『4月入園の1歳児のランちゃん(1歳5ヶ月)は、いつも0歳児のミキちゃん(11ヶ月)を見つけると、傍にスーッと座ります。顔を覗き込んだり、頭をなでたりしながらだんだん体の距離を縮めていきます。そして、最大限に距離が縮まるとギュッと抱きつくのです。ランちゃんのミキちゃんに対する愛情表現はこんな形になることが多いのです。まだ加減が分からないので、撫でているうちに頭を叩き始めることもありますが、保育者に「優しくなでなでしてあげようね。」と言われると叩くのを止めて、そっと撫で撫でしています。
ある日、ランちゃんがお手玉をたくさん入れたおままごとのボウルを自分の前に置いてかき混ぜています。お料理に見たてて遊んでいるようです。そこへ、スーちゃん(11ヶ月)が近づいてきました。気配を感じたランちゃんは、咄嗟にボウルを両腕で抱えこみました。ランちゃんの側にすわったスーちゃん。案の定、スーちゃんの手がランちゃんのボウルに触れました。すると、ランちゃんはスーちゃんの手にボウルが届かないよう体を45度くらいひねり、自分の体と腕で守ります。それでもスーちゃんの手は、ぬ~と横から伸びてきます。お手玉を取ろうとするスーちゃん。手が伸びてくるたびにランちゃんは体の角度を変えていきます。

しばらくすると、スーちゃんはランちゃんのボウルを追うことを諦めました。そして、近くに置いてあったブロックを手に取りひとりで遊び始めたのです。
ランちゃんはスーちゃんの様子を見て、『もうこっちには来ないな』とほっとしたようにスーちゃんの方に体を向き直しました。次の瞬間ランちゃんは、お手玉を一つ手に取りました。そのお手玉をスーちゃんに「どうぞ」と差し出したのです。スーちゃんは笑顔で受け取ってくれました。すぐに、スーちゃんはボウルやお手玉、遊んでいたすべての道具をその場に置いたまま去っていきました。』
この風景に対して担任は《ランちゃんは、自分よりも少し小さいお友達に興味があり、特にミキちゃんに対してもっとも親近感があるように見えていた。ミキちゃんより月齢の低い子にはあまり興味を示さない。この日のスーちゃんに対しての姿は、おそらくスーちゃんと月齢が同じで発達も近いこともあり、改めて彼女の存在を意識したのではないか。どうしたら自分の物を守れるかというやりとりをした後、お手玉を手渡そうとした気持ちとは、どんなものだったのだろうか?》
と、振り返りを残しています。自分が遊んでいた物は誰にも渡したくない。それが45度、体を背けるという行動になります。しかしその後、遊んでいたボウルではなくて代替物としてお手玉を手渡し、スーちゃんが笑顔になるとそれに引き寄せられたのか、ボウルまで残してあげて?別の遊びをしようとしました。

「ボウルで遊ぶ事に飽きたから」でしょうか。「仕方ない、譲ってあげよう」と考えたのでしょうか。もしも相手がふだん親しみの深いミキちゃんだったら、どうでしょう。あっさり貸してあげたでしょうか、否、むしろ相手が近しいので自我をぶつけて譲らなかったかもしれません。否否、2人とも自分より月齢が低いと認識できているので、誰にでも譲ってあげようという気持ちになるのでしょうか。
ランちゃんの頭のなかでは私たちの想像が及ばないような知的なワークがなされていたのは間違いないことです。それは科学者のような物に対する探求心とは異なる心の知能です。もしも、担任が「ランちゃん、譲ってあげて」とお願いしたら、ランちゃんもスーちゃんも担任との関係で心が動きます。結果、譲ってあげた時、大人はただ「善い行いだね」と流します。しかし2人の経験した事や心の育ちの中身は全然違う!と評するのが保育の専門性だと言えます。再生医療は進歩し量子コンピュータを製作するまでに進歩した現代社会ですが、子どもの行動の真意を観測する専門性は未開です。それが保育士の質を下げ、保護者の理解を得づらくしている要因になる!? と懸念しています。【資料提供:関戸真理子(世田谷はっと保育園)】
※ 次回は7月11日 もみの木台保育園(横浜市)です。