ユナタン

週刊メッセージ“ユナタン”25

2017年1月6日 金曜日

 ≪ユナタン:25≫ in 種の会
~ 秋、ひといき、つきながら… ~

平成28年11月9日  片山喜章(理事長)

秋が深まると冷たい空気がさらさらの粉になって、頬や首筋を撫でていく感じが伝わってきます。
そのせいで、わけもないのに寂しさや人恋しさが、何の脈絡もなく込み上げることがあります。
その合間あいまに、“色んな今”を、“あれやこれや”と思索してしまうことがあると思います。

【 10年に1度の「保育指針」「教育要領」の改定がなされます 】

保育指針や教育要領には、保育園の保育や幼稚園の教育に対する国の考え方が明記されています。と言っても、お薬手帳くらいのサイズで、厚さも私のお薬手帳くらいの薄っぺらな冊子です。それが今年度、改定作業に着手しました。10年に1度のことです。夏が過ぎた頃、「中間取りまとめ」というものが出ました。来年、仕上がり、1年かけて周知して、再来年度から施行するというスケジュールです。薄い冊子ですが、凝縮された「文言」が埋まっています(ネットで検索してください)。けれども、この今の状況、現場の先生たちは関心がありません。ほとんどと言っても間違いありません。改定されることさえ知らない先生も、日本中、たくさんいるのです。

なぜなら現場の保育者は、行事をいかにうまく乗り切るか、A君とB君のトラブルをいかに解決するか等々、自分の園の目の前の出来事に一生懸命だからです。保育は、ある種の「格闘業」ですから「文言」で示された「指針」の「抽象的なあるべき論」は、深く読み込んでも、何の役にも立たないと感じてしまうのです。当然といえば当然です。実際、私自身、むかしむかしその昔、9年間、現場で保父さん(男性保育者)をしていて、そう実感していました。その当時からこんにちに至るまで、国は、現場をわかっていない、わかってくれない、とずっと寂しい気持ちのままです。

10年に1度、恒例行事のように「文言」だけが、改定されていきます。改定作業のプロセスや「指針」自体について、折に触れ「ニュージ―ランドのテ・ファリキ」「バイエルン州の陶冶カリキュラム」を引き合いに出して、抜本的な見直しを訴えてきましたが、わずかに賛同する人はいても、ず~と、スル~され続けています(ウザイ奴なのです、私は)。今の指針を、例えて言うなら、子どもにとって必要な栄養素は明記されてあるが、どの食材にそれが多く含まれているか曖昧で、調理=実践するためのレシピがない。つまり、日々の実践において、役には立たないのです。

保育は計画し実践し振り返ることが原則です。しかし、今までの「指針」がなぜ活用されてこなかったのか、その検証がなされない(そんなことしたら抜本的にやり直さないといけませんから)。なので、現場は「指針」や「要領」に関心を抱かない。なので“つくり”も現場から乖離する。
つまり、現場ファーストでないことが悪循環を招いている、というのが私の素朴な意見です。

 

【 なぜ、日本の企業文化や労働環境に言及しない 】
「指針」には子どもと保育について書かれているのですが「はたらき方」の改善について言及されていません(国は別の部会でしています)。各園に対して「こんなふうに保育しましょう」というなら、そのための「家庭基盤」をきちんと整えようと社会に訴えていただきたいものです。

昨今、過労による悲惨な出来事が話題になり、問題視されています。家庭支援と言えば福祉の名目で金銭的補助の施策に偏っていますが、大手会社で収入の多い家庭においても、悲惨な出来事が起きています。「指針」において「日本の企業文化や労働環境の改善」が家庭基盤を整え、それが「子どもの健全な育ち」の大前提になることを、冒頭(総則)に、あるいは第一章に謳わないのは、指針自体の社会性の欠如だと思います。ここでまた、もどかしい気持ちになってしまいます。

 

【 小学校との接続というけれど・・・ 】
今回の「指針」や「要領」には「小学校との接続」が盛り込まれる見込みです。小学校は小学校で、「アクティブ・ラーニング」がさかんに語られています。というか、知り合いの先生たちは、ゆとり教育が打ち出されたときのように困惑しています。1人ひとりの机が前を向き、1人の先生が子どもたちと対面するスタイルでは、アクティブになることは、ひじょうに困難です

法人全園共通のバルーンや組体操の練習方法と本番の姿を思い描いてください。“決まった振り付け”や“決まった形(タワーやピラミッド)”は、あっても、特に先生の指導はありません。互いに見合って教え合い、ビデオを見ながら、自分を意識し(知り)、友達を意識する(知る)過程を通して、自分たちでやりきる、言ってみれば「幼児版アクティブ・ラーニングの授業」です。「文言」ではなく、このような実践として、子ども集団に任せ、子ども集団に委ね、子ども集団がやりきって結果を出せるように“導く”教育観が普及しない現状をとても寂しく残念に感じます。

小学校長や教育委員会の知人と保幼小連携の話をして、互いに嘆くことがあります。保幼小がお互いに行き来していない現状で、連携や接続を求められてもイメージが持てないのです。
授業参観に出向いたとき、思った事、感じた事、話し合いたい事が山のようにありました。道徳の時間に正解が1つしかないこと(絶対、おかしい!)に驚いたことがあります。逆に、園の運動会や発表会に1年生の担任の先生が来られたことがあります。“ちっちゃく、かわいい1ねんせい”よりも年下の年長児が、トラックリレーや相手を決めない組体操をする雄々しい姿に驚かれていました。このような互いの“驚き”をわかちあって話し合って、互いに考える機会を持って、そこで話し合われたことを吸い上げて策を講ずる。そんなボトムアップの手法を期待しています。自治体レベルで公開保育と公開授業を相互に画して、くりかえし実施して、地域で関係性をつくりだすことが第一だと考えて提案しています。そうなれば、毎年まいとし、送り出した卒園児たちの成長した姿にも出会えます。 にわかに人恋しさがこみあげてきました。

週刊メッセージ“ユナタン”27

2017年1月6日 金曜日

ユナタン:27≫ in 種の会

~ 師走を迎えて思うこと ~

                     平成28年12月6日:片山喜章(理事長)

2016年(平成28年)は、激動の年、大転換期の序章として世界史に刻まれるのではないかと推測しています。皆さんそれぞれが「ゆく年」を思い返し、「来る年」に思いを描くこの「師走」に、多くの保育者は「はっぴょうかい」について、あれこれと思いをめぐらせています。もう既に、子どもたちと話し合いをはじめている園もあります。

 

(ご存知のように?)一昨年から「保育環境評価スケール」という冊子を用いて、各園、年4回、保育環境の評価を受けています。各園から毎回2名、評価者として出向きますから関東3園で12回、関西4園で16回開催されます。相互に訪問して数値化して評価し合いました。今年の4月からは、訪問回数は同じですが「コーナー・ゾーン」に特化した法人独自の指標を設けて実施してきました。

 

自園の保育環境や方法を改善するには「他者から評価してもらう事」は効果的です。しかしそれ以上に他園を訪問し、その園のために!自園の事は“棚”に上げて厳しく指摘すると一層、自園に弾みがつく事もわかってきました。『他人の振り見て我振り直す』を越えて「他人の振りを見たら適切に指摘する!」と「我振りの直りも速くなる」のです。

 

この“指摘し合う文化”が媒体になって「コーナーやゾーン」について、各園の知見やウンチクはぐんと深まって、議論のレベルも高まります。そして最近、根本的な子ども観や保育の仕方が底上げされた気がします。少し驕って言うなら、この国がめざす教育・保育の形を先取りしたものになってきたと言ってよいと思います。もちろん人によって違いはあり、各園各様に課題はありますが、年齢別のクラス活動においても、自然に、子どもの言い分や意見を取り入れる《保育風土》が各園に醸成されつつあると評しています。

 

従来型の教育・保育を端的にいえば、先生が課題やテーマをあたえて子どもたちは一斉にそれに取り組むというもので、広く一般的に周知されている日本式の教育の姿です。先生が期待する答えを探したり、みんなが同じ手順で同じような物をつくる事で安心したり、一見“まとまり感”があるようで、先生も子どもたちも心地よいものでした。しかし、時代の変化と共に心地よい状態がどんどん崩れだしました。先生が教えた事を学ぶ教育が徐々に機能しなくなり始めました。「小1プロブレム」「学級崩壊」と称されるように、教師集団も苦悩し、こだわりのある子ほど適応しづらくなってきたのです。

 

この「状況」をふまえて国もあれこれ善後策を打ち出します。かつての「ゆとり教育」(もう少し試行すべきだった)や現在、佳境に入っている「アクティブ・ラーニング」はその現れです。しかし私自身、正直、期待できないのです。それには理由があります。1つは、従来型の教育や保育に変わる「新しい教育観」は圧倒的多くの人たちに理解されづらい現状があります。学校だけでなく社会全体として“子どもの人権”に対する意識が成熟しているとはいえない現状もまた大きな要因だと思います。逆に子どもの安全・安心のための大人の心配りが時には子どもを庇護し過ぎ、自立を阻む場合もよくあります。

 

もう1つは、私たちの園の「5歳児の日々の学びの姿」と「小学1年生の授業風景」の差異があまりにも大き過ぎることがあげられます。5歳児になると小学校に進級するために!机に向かって!先生の言うことをじっと、ずっと聞ける姿が求められます。なので、現在、園によっては、5歳児だけ「ワークの時間」を設けるなど、各園でそれなりの対応はしています。しかし、本来、そこが逆さにならないと「教育改革」は果たせない!と思います。つまり、小学校の先生方が頻繁に園を訪れて5歳児の保育や姿を実際に見て、私たちと何度もなんども語り合って、学校での授業(特に1,2年生)の形態やすすめ方に反映させていただく、そんな日常を作り出せるように私たちもがんばります。

 

「知識」とは、かつて「覚える事」でしたが、今ではネット等で「検索する態度」を身に着ける事であると言われています。“みんな違って良い”のにクラス全体を上から1つにまとめようとする考え方が保幼小を問わず多数派ですから改革には困難が伴います。子どもたちに問題やテーマを投げかけ、子どもどうしが存分に話し合うと互いの違いを感じ取ったり、弱点を補い合ったり、個々の子の眠っている“寛容さ”が能力として引き出されると考えます。議論を存分に交わす習慣を会得すると、辿り着いた答えに異論であっても納得が生れまるものです。正解を知ること以上に、1人で、あるいは何人かで正解を探し、仲間と納得の度合いを深め合う事が「これからの教育」であると確信します。

 

「コーナー・ゾーン」による保育は、自分で遊びを選びます。誰しも選択を迫られる事は人生の節目、節目に訪れます。自分で選んだ遊び(学び)に没頭する。この経験をくりかえし積み重ねることが“判断力”や“向上心”の土台づくりになると考えられます。このような保育を日常的に取り入れると年齢別のクラスの保育も変化します。例えば、クッキングや誕生会の「プロジェクト型保育」、運動会の「練習プロセス」などにおいて、子ども主体の教育・保育がクラスの保育にも浸透し、定着しつつあります。

ということで、年明けから本格化する「はっぴょうかい」の取り組みが、いかに子ども主体で、子どもたちが「納得」しながら展開されるのか、大いに期待されるところです。

週刊メッセージ“ユナタン”29

2017年1月11日 水曜日

ユナタン:29≫  in  種の会

 ~ 「まとも」 と 「ふつう」 を考える ~

                           平成29年1月11日  片山喜章(理事長)

新年を迎えると、誰もが、一旦、立ち止まって、自分自身の生き方や仕事の目標、社会や世界のあり方まで 「今年の抱負」 として心を込めて頭に描くだろうと思います。けれども現実は、個人の夢や願望が“グローバリーゼーション”という止めようのない“世界潮流”に押し流されて変形していくように思えます。

同時に昼夜を問わず流れ込む大量の「情報」によって、世界規模で、一国において、一組織、一個人においても、“光と闇の斑模様”がより鮮明に縁取られてきた、そんな感覚を抱く2017年の幕開けです。

 

昨年、関東のある保育園のお餅つき大会で食中毒が発生しました。すると、その園を所轄する行政はいち早く各園に「つきたての餅は食べずに市販の物を食べさせる」ように、おふれを出しました。奇妙な話ですが多くの園が仕方なしにその指示に従いました。これって「まとも」でしょうか? 極端です、よね。

この食中毒によって、どれだけの数の子どもにどれほどの重篤な症状が出たのか、その情報は定かでなく、原因解明の前に、まずは、ついたお餅は食べないという極端な思考が優位に扱われ(お餅つき大会を中止する園もありました)、それが善後策として決定されたことに強い違和感を抱きました。

 

子どもの一生における健康を考えるなら、ほんとうに回避すべきリスクとある程度、必要なリスクを識別する判断力が必要だと思います。幼少期、バイ菌や雑菌等に触れて慣れて、いくつかの病気をしながら強くなる(小児科医の見解)、小さなケガをくりかえしながら自分の体を守る術を体得する等、かつては、それが“まとも”な考え方で一般的でした。奇妙な話は、専門分野にも及びます。例えば、生れてくる子のアレルギー予防策として、母親は妊娠中や授乳期に食物アレルゲンを摂取しないという情報が世界中に広がり(グローバリズムの力)、勧告もなされました。しかし事態は真逆でした。きちんと順守した母親により多くのアレルギーを持つ子が生れ、昨今、「母親はアレルゲンを含む食生活をしている方が良い」というデータが学会誌に発表され方針転換がなされました。まともって何でしょうね。 (『NHKスペシャル』より)

 

家庭やレストランでは、サラダなどの生野菜を食べられますが、園の調理室では、すべての野菜を茹でる、トマトさえスチコンで熱を通す、そこは行政監査で指導される、これが実態です。今日の食中毒の最大の防御策ですよ!と諭されると否定はできません。保育関係者は、もう慣れっこになった日常の姿ですが、どこか奇妙です。防御=排除という思考を続ける限り、このような傾向は強まり、常態化します。

確かに今日の時点では何も起こらないかもしれません。しかし、私たちは、ヒト本来の“生きる力”を、明日を担う子どもたちからどんどん奪っていることへの罪悪感に苛まれます。行政指導やマスコミの論調や世論の傾向に葛藤を覚えます。そんな時、一旦、立ち止まって「まともな事」「ふつうの状態」を考えてみると、新しいアイデアに出会うことがあります。今年は、各園、どんな出会いがあるのか、楽しみです。

新年早々、小難しい話題ですが保育の話です。子どもたちは葛藤経験によって、思考力や判断力を磨きます(逆に過干渉は鈍化させます)。私たち保育者集団も常に子どものあるがままの姿を凝視しながら、“手持ちのあるべき論”と重ね合わせて葛藤し、そこから創意を捻出し新たに保育内容に反映させる、それが「ふつう」の仕事の仕方であり、「まとも」な保育の大道ではないかと思い至っています。

保育内容の核になる子ども観や保育観は変えない、変えてはならない!と言われますが、私たちは、時代の変化に応じて、変えることが「ふつうの保育」であると捉えています。

 

例えば、昔から今に至るまで、マーチングといわれる鼓隊や鼓笛隊が保護者の大きな評判を得て保育に取り入れる幼稚園、保育園がありました。そこには厳しい練習があり、その厳しさが教育であると考えるグループとマーチングなど、もっての他である!と唱えるグループ(特に公立園)に大別されていました。

その当時から現在に至るまで、肯定か、否定か、というまともではない極論戦が繰り返されています。昔、私は否定派でしたが、年々、不毛な議論をしている事に気づき、今は、良し悪し論ではなくて、指導者の願いの強さや子どもたちとの信頼関係、さらに幼児向けの《練習方法》の内容を関連させて判断し、評価します(当法人のバルーンや組体操の練習方法はその典型)。また練習の頻度や1日の中でどれくらいの時間、練習をするのか、その実態から良し悪しを考えるようになりました。10分以内の特訓なら毎日しても毒より効能は大きく、法人のお家芸の《1歳児の毎日サーキット》は最良の指導方法で、多彩な動きを経験させるために、その時間は全員に対してウロウロしないように促し、コースを巡回するように誘導します

 

昨今、人気を博しだした「幼児英語」も20年くらい前は、「日本語もマトモに話せない幼児に英語なんて、どうかしている!」という考え方が多数派を占め、専門家からも「概念形成がしっかり出来上がっていない幼児期から、英語教育は好ましくない!」と自信満々の「見解」が出されていました。しかし表面ページの“アレルギー対策”同様、「専門的見解」は、その時代の推論でしかなく“最新の研究”によって真逆になるケースがよくあります。(昔、強打して頭にタンコブができると子どもは、大人に一様に患部を強く揉まれ、その痛みは倍増しました。その処方は良くないことが判明し、今は冷やすのが常識になりました)。

実際に自分が英語教室を体験してみると、レッスン方法にもよりますが、プラス面が多いと実感します。単純にエイゴを学ぶというより、思考の幅やセンスを広げているように感じます。小学校でも英語が導入される社会的背景や“時代の後押し”が目には見えない力として、はたらいているように思えます。

 

というように、是か、非か、感覚的に○×議論をする前に、その背景にある現実に目を向ける重要性を感じます。EUにおいて、シリア難民を受け入れるのか、自国民の利益を優先し難民を排除すべきか、これも○×論議のぶつかり合いで「まとも」な議論に至りません。米露の覇権的利己主義の結果、シリアから難民が生み出されている現実に対して、世界は、強い抗議のムーブメントを起こすべきなのに、各国はどちらかを支持し、その結果、ポピュリズムを培養しています。究極のところ、貴方自身と隣人のお付き合いの仕方の問題であると考えるのが、「ふつうの人のまともな思考」だと思うのですが、いかがでしょう…。

週刊メッセージ“ユナタン”30

2017年1月25日 水曜日

≪ユナタン:30≫  in  種の会
今回は「発表会」について、次回は「移行保育」について基本的な考え方をお伝えします。
《生活発表会のお稽古に漂う空気の裏側》

平成29年1月25日 理事長 片山喜章

毎年、2月には「生活発表会」と称して、劇や合唱や合奏などのお披露目があります。
お披露目の仕方は、7園7様で、しっかりした舞台と緞帳があったり、台形の舞台だけだったり、段差のない床の上で演じたり、子どもたちの“熱演”が映し出される背景はそれぞれ異なります。ですから、各園が考える「劇の演出や構成」は、その園の条件によって大きく異なります。

当日、子どもが身に着ける衣装についても様々な考え方があります。「衣装が派手だと子どもの表現をスポイルする(衣装負けする)」とか「衣装を着けた方が子どもの表現意欲は増す」とか業界内でも賛否が行き交います。私個人は「舞台との関係で相対的に考えた方が良い。すなわち、舞台らしい舞台であるほど、衣装は、より華やかな方が良い」と考えます。(各園、任せです)

劇の台本づくりは、子どもたちと話し合いながらも、演出家としての先生が責任を持って創りあげて演出するのが基本だと考えます。先生の演出力によって子どもの表現力は間違いなくアップするからです。けれども、保育者は劇(演出)のプロではないので、そこが悩ましいところです。しかし同時にプロでないからこそ、子どもたちの発想を尊重し、子どもの提案を取り込んで共に創りあげることができます。これは、これで素晴らしい保育になる可能性を秘めています。

《先生が自分自身のセンスを磨きながらしっかり指導し、子どもたちがプレイヤーとしてそれに応える場面》と《子どもから出る提案を先生は尊重しそれに応えて、いっしょに創っていく場面》、この《2つの場面》が、実際のお稽古では絶えずせめぎ合っています。このせめぎ合いからピリピリした熱気が湧き出てきます。そして、それはマダラ模様を描いているように感じられます。きっとこのマダラ模様の熱気が、発表会当日まで子どもたちの意欲を包み込むように感じます。

私自身、直接(ほぼ創作)、間接を含めて70作を超える劇づくりに関わってきましたが、今尚、たくさんの謎を抱えています。なかでも、不思議なのは、お稽古に取り組む時に見せる子どもの義理堅さ、律義さです。日頃、悪ふざけが目だったり、先生のいうことをなかなか聞けなかったり、集団からはみ出たがる子どもたちも、劇の練習では、素直に先生の言うことを聞きます。発表会が近づくにつれてその傾向は強くなります。ということは、このような《期間限定の厳しい体験》が子どもの育ちを後押ししていると考えるのですが、みなさんはどのように解釈されますか?
最近まで劇のお稽古中、先生がカミナリを落とすのは、その先生の“指導力”が乏しいからだと考えていました。自分の力不足を子どもに当たるとは・・! 悪事をはたらいたわけでもないのに、お稽古中に興味を無くしてダラ~としただけで叱られる事に、ガテンがいきませんでした。子どもがかわいそうです。今もその思いは同じです。しかし、子どもはカミナリを落とされても、逆切れ?しないで殊勝な顔をして黙々とお稽古を続けます。昨今、それが不思議でふしぎでなりません。

劇の中では、クラスの仲間全員が何かの役柄になって、日頃使わない言葉を発したり、奇妙な動きを求められたりします。子どもに限らず人にはもともと変身願望が在り、そこが刺激されるので叱られたり、強いられたりすることを、受け入れたり、楽しめたりするのだと考えられます。
自分ではない役柄を演じるという人間だけが抱く“根源的愉悦”(私も一時期、コスプレにハマっていました=冗句)が、お稽古の辛さを押しのけるのかもしれません。また、指導する先生の真剣さやクラスやグループで練習する時のピリピリ感のある空気に浸ると、しぜんに自分を抑制しようと努めるのかも知れません。(ほんとうは、もっと底深い未解明な事実が在るのでしょうが・・)

4,5歳児においては、既に発表会を経験していますから、前年度、あるいは前々年の思い出が大人の何倍ものリアリティを持って一気に押し寄せて(子どもによってはたくさんの台詞を覚えています)、親近感を抱き、達成感を見通しているのかも知れません。本番当日、大勢のお客さんの前に立つ自分自身のことを無意識の世界でイメージできるので耐えることができるのだ、と推測しています。2,3歳児も、毎日まいにち劇のお稽古があり、先生もその時間だけはキリリとしているので、何か特別な事態であることを感得しているように思えます。

また、子どもが大人より優れていると思うのは、先生が厳しい顔つきでカリカリ指導していても、先生の不備や間違いに気づくとその場でしっかり指摘することです。時には「せんせい、ちがうよ」と厳しい口調で詰め寄る子もいます。また、先生の勘違いにみんなで爆笑したりします。子どもたちは従順なイエスマンにはならないのです。最近、特にその傾向が強いので嬉しく思います。
社長や理事長が、マトを得ない話をしても「ズレてますよ」とはなかなか言えない日本の組織風土を思うとき、ある意味、彼らは頼もしい存在で、そのままの姿で成長してほしいと願います。

とまあ、こんなふうに考えると、厳しいお稽古であっても、4週間ほどの期間限定なら、厳しさをしっかり体験することは教育的価値があると言えます。お稽古のプロセスにおいて、子どもたちがイメージをより深く表現し合ったり、子どもどうしで互いに褒め合ったり、各園各様に工夫を凝らすことで教育的価値+豊かさを育もうと、各園の先生たちは今まさに奮闘しているところです。

週刊メッセージ“ユナタン”31

2017年3月8日 水曜日

ユナタン:31≫  in  種の会

《移行期保育のさなか、来年度に向けて》

平成29年3月8日 理事長 片山喜章

学校では4月に新しい担任が発表されます。多くの園も同様です。4月を迎えると、にわかに保育室が変わり、あわただしくなりますが、いま各園において、既に新しい担任たちは、幼児会議、乳児会議を開いて次年度の保育について、あれこれと話し合っています。

新担任が発表されると、保護者の方の間では“ああだ、こうだ”とお声があがるものです。特に持ち上がりに関しては業界内でも賛否があります。確かに、0歳児から1歳児、1歳児から2歳児に進級する時は、また、1階から2階(その逆もあります)へ保育室が移動する時、担任は持ち上がる方が安心できるかもしれません。しかし実際問題、子どもではなくて、新担任との話しやすさ等、保護者の方々が不安になることが大半です。どうか、新担任に慣れていただきたいです。

 

私自身、担任は持ち上がりしないで、総変わりすることがダイバーシティを意識した今後の保育のあり方として望ましいと考えています。なかなか新担任に慣れない子は、個別の配慮の中で対応し解消すべきことです。それよりも、移行期保育をしっかりすることが大事だと思います。

移行期を設けるのは、4月のゴタゴタした雰囲気のなかで新入園児を迎えると、さらにゴタゴするのを多少なりとも緩和するためです。移行期保育をしない方が奇妙に思えますが、どうも、日本中、慣れっこになっているようです。0歳児、1歳児の4月の保育室は悲鳴や号泣が響き渡ります。保育者はおんぶと抱っこ、さらに両手に1人ずつ子どもと手を繋ぐ毎日を過ごします。

3月中に、新しい部屋と新しい生活スタイル、そして新しい先生に慣れておくことが、担任人事以上に大切であることをご理解ください。

 

子どもたちの育ちや発達は、上がったり下がったりしながら、1年を通してみると、右肩上がりに発達していることがほとんどです。園生活で最も落差が激しいのは、2歳児(子ども6人に1人の保育者が基準)が、3歳児に進級する(子ども20人に対して保育者1人)時です。

それに伴って、1階の生活から2階の生活(みやざき保育園は逆です)に変わり、ロッカーの仕様も変わったりします(世田谷はっとは2歳児から幼児とともに異年齢保育をしています)。

この急激な変化は、どう考えても望ましいとは言えず、この落差を如何に埋めるか、そこに力を注ぐべきだと考えます。当法人では開園以来、「移行期保育」という考え方を取り入れて、この落差をできるだけ埋めて、少しでも良い状態で4月の新年度を迎えたいと願っています。ですから、運動会が終わった頃から年齢別の保育において、次年度の生活スタイルを見据えた取り組みを意図的に行なっています(クラス内でのセミバイキングスタイルの食事、階段の上り下りなど)。

次年度の保育を描くとき、もう少し「保育の見せる化」=「育ちの見える化」を志向しようと練っているところです。これまでも保育の様々な場面をトピックとして切り取って掲示してきました。

しかし、それがどのような育ちにかかわることなのか、しっかりお伝えしていなかったように思われます。“楽しそうな姿”や“がんばっている様子”を単に写真にして貼り出すだけでは、充分であるとは言い難く、「こんな力が育まれています」「こんな力が育った現れです」ともう少し深入りする必要を感じています。それは園や保育者の側にとっても、保育の意図や成果を確認するうえでも、価値のある取り組みだと考えられます。

 

《保育をもう少しワイドに見直す》

良い保育、良くない保育という線引きは、全国各地で自己流に行われているのが現状です。それ自体、多様性の現れで好ましいことですが、視点が“硬直したまなざし”であったり、思考が“原理主義”であったりする現状が幅広く存在します。今、話題の教育勅語に対しても賛否で思考するパターンが多数派ではないかと思います。私論では、人類史的に文明の進歩と思考の進化のバラツキの賜物だと考えています。勅語自体、好ましい内容ですが個々人の内なる気持ちして湧き出ることが大事です。支配者は個々人が湧き出るような風土を醸成するのが努めであり支配者が言語化して求める事ではないですね。(ややこしいので、また、別の機会に)

 

幼児教育界では、素晴らしい論客たちが盛んに「何かができるようになるのが目的ではない」、「フラッシュカード(漢字カード)」は、前頭前野がはたらいていないし無意味。など、アンチヤラセの思考から抜け出せないです。一方、「これができるまでおやつは無し」「失敗したらグランドを走ってこい」と体罰をあたえる旧式の思考で教育を捉える人たちもいます。私(たち)は、双方を止揚した立ち位置にいます。あやとり、お手玉、コマ回しなど伝統遊びは子どもが体験し上達したいと願うような仕掛けを設けて後押し、また、できない子へのケアに努めたいと考えます。

 

法人の理念は、お互いに影響を授受しながら、各園各様に方針を立てること。そして各園はその違いを“優先順位の違い”として心底、認め合うことです。それは、これからの地域社会や国家観、世界のあり方に通じる“進化の先端にある思考方法”だと考えています。

フラッシュカードも毎日5分間だけなら、弊害より効果が高いと考えられます。縄跳びも毎日、5分間なら問題ないです。これもまた「保育の見せる化」=「育ちの見える化」の一端であると同時に、現代という時代にマッチしたワイドな実践の形という考え方に至っています。

今後担任と管理職が共に《子どもの言動の意味》を探求して対応し《日々の保育》をいっしょにPDCAする。 これこそが「見せる化」、「見える化」の両輪になるとイメージしています。