ユナタン

週刊メッセージ“ユナタン”14ー③

2016年5月9日 月曜日

ユナタン:14≫ at もみの木台保育園

~ “マイペース”って言うけれど… ~

平成28年4月22日:片山喜章(理事長)

5歳児ひかり組のAちゃんは、普段から、どちらかというと自分のペースを崩さない、いわゆるマイペースなタイプの子どもです。「お片づけの時間」になっても、“いま、そこにある遊び”に没頭して、なかなか片づけようとはしません。友達から「片づけてよ!」と言われても「今、やろうと思っているのに!」とギャクギレ?しているような強い口調で返事をすることがよくあります。戸外に居ても入室するのは、いつもマイペースで、たいてい最後になってしまいます。

 

みなさんはこのような子どもの姿をどう評価しますか?

きっと、どこの家庭でも少なからず起こりうる光景です。私や法人内の年配の管理職(もみの木台ではありません)たちは、最近、“さっと、お片付けする子どもって、遊びに没頭できてないよね”“片づけなんて大人がしてもよいよね”“一生、片づけが苦手でも人生、うまくやっている人もいるよね”と“年寄り特有の寛容さ”が保育観になりつつあります。実際、保育の世界でも「片づけ」については、有識者や論客がさまざまに語りますが、見解は虹色です。

 

「自分が困って、必要性を実感したら片づけるようになる」「片付けよりも遊びや探究に没頭する方が人として豊かである」「その子(人)の気質なので教育として扱えない」など、様々な声を見聞きします。チナミに私個人は、幼少期から今現在に至るまで、片付けがスコブルできないヒトで、いつも散らかしっぱなしです。周囲の人たちも自分自身も、ほんとうに嫌気がさして困惑しきっているのが現状です。ですから、Aちゃんの気持ちはよくわかる一方で(そんなヒトにならないために)物をさっさと片付けるチカラ(習慣)を身につけてほしいとも思います。

 

そんなこんな話をしていた土曜日(9日)、1歳~5歳まで全員で14名の子どもたちが登園していました。2歳児から5歳児まで11名の子どもたちは園庭で遊んでいた時のことです。

「入室の時間」になると2歳児クラスの子どもが「まだ入りたくない!」と反抗し、一向に片づけようとせず、3名の2歳児の子は、園庭のあちこちで一層、激しく?遊びだしたのです。

先生が言い聞かせるほどに「入りたくない!」の声は大きくなります。先生は駆け寄って個々に片付けを諭し、入室を促しました。が、逆に“悪ふざけ”がはじまり、効き目はありません。

 

そして、3人の子は、1階テラスの隅に集まって、外遊び用のフープが掛けてあるところに隠れました。たぶん、“かくれんぼ気分”で先生をからかっているのだと思います。

すると、そこへ、あのAちゃんが、やってきて、しばらく3人の顔をじっと睨んでいました。

Aちゃんは、3人の2歳児を、しばらくの間、怖い顔をしてまま睨んだかと思うと、フープに手をかけて・・・ひっぱたこうとしたような・・・、けれども、すぐに手を放しました。

Aちゃんなりにあれこれと考えている様子が窺えます。そして行動にでます。

まず、ひとりの子どもの手を取って、「もうお部屋だよ!」と強い口調で言い放って、後は、無言で下駄箱のあるところまで手を引いて進んで行きました。入室を促すAちゃんは、2歳児の子にとって、先生より怖い説得力のある存在になりました。普段“周りは関係ない”とマイペースだと思われていたAちゃんが、年下の友達の手を引いて入室を促したのは、クール!でした。

 

「園庭には10人あまりの子ども」。「保育者が1人で入室を促している」。「けれども入室しない子どもが3人以上いる」。この状況を見ていたAちゃんは、Aちゃんなりのペースで「なんとかせにゃあかん」と感じ取ったのでしょう。主任の上遠野さんは「きっと“自分はこの中で1番年上のひかり組だから手伝ってあげよう!”という気持ちと、土曜日一緒に過ごしていても、今まで関わることが、さほど多くなかった2歳児そら組の子どもたちに対して、“どう接したらいいのかわからない”、と葛藤し戸惑っていたように思う」と振り返っています。

きつい口調で言うだけでは、自分より小さい子は聞き入れてくれないことくらい、日頃、3歳児以上の異年齢で生活しているので、実感として理解できていると思います。けれども、優しい言葉をかける場面でないこともわかっていたので、ただ“無言”で手をひく…というかかわりに至ったのだと思われます。これが“Aちゃんのペース”“Aちゃんらしさ”なのでしょう。

 

けれども、この時、外に居る子どもがすべて同じクラス(学年)だったら、どうでしょう。葛藤することなく、ケンカになってしまうか、あるいは、無関心でいたかもしれません。

ここに異年齢で生活することの利点を見出すことができます。「入室する意味(食事の用意)」を理解していて、「先生が困っている」「先生を困らせているのは、2歳児の年下の子どもたちである」「彼らなら自分のペースで諭すことができる」きっとこのような気持ちがはたらいて、Aちゃんの中の正義感や規範意識を刺激したのだと推察できると思います。2歳児の子どもたちの振る舞いが、Aちゃんの“マイペース”を変容させた、と表現して良いと思います。

 

私たち大人は、「あの子(人)は、マイペース」と言うとき、どちらかと言えば、ネガティブな評価をしていることが多いと思われます(イタリアやフランスでは、歓迎されます)。そのあたりの事は、教育の根幹に関わることですから、折に触れ、洞察していきたいと思います。

 

その後、Aちゃんのクールな姿を見ていたひかり組の他の2名の子ども応援にかけつけ、全員がすぐに入室することができました。その子たちも、Aちゃんには、日頃「片付けてよ!」と怒りをぶつけても、2歳児の子どもには厳しくやわらかく接していました。(資料提供:上遠野)

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ユナタン:14≫ at 世田谷はっと保育園

~ キラキラの木の根っこ ~

                      平成28年4月18日:片山喜章(理事長)

今年度、園だよりに毎月、「キラキラのページ」が登場します。4月号には連載に至った経緯が記載されています。昨年度、幼児クラスに展示されていた「キラキラの木」がきっかけでした。 

4月号の“キラキラエピソード”は“キラキラ”というよりも一瞬、輝いて消えるよくある保育場面です。しかし“キラキラ”を取り上げる行為が「教育」として重要であると考えています。

私たちは、映画やTVで“大きな感動”を呼ぶドラマや実話にずいぶん慣れ親しんでいます。効果的な編集や若干の作為があったとしても、多くの人たちは感動にひたり、感涙にいたることがしばしばです。しかし、お家の中で、くつろいだ雰囲気のままで「TV画面」に流れる大きな「感動物語」を味わい続けると、いつしか“感動慣れ”し、日常の中で起こる小さな“キラキラ”に対して疎くなり、感性の根っこが鈍麻するのではないか、と小さな懸念を抱いています。

ですから、保育者集団も子ども集団も保護者の皆さんもお互いに小さな「キラキラ(良いとこ)」を鋭く感じ取って表現してほしいと思います。そんな日常生活は豊かです。

昨年度(今年3月)、はっとこども園(神戸)は、「保育要録」を送付する際(卒園する子に対して「健康」「社会」「対人関係」など領域ごとに“この子は、こんな姿でした”という事柄を記述して、進学する小学校に送る文書)、その内容を“キラキラ”だけで埋め尽くしたのです。

「キラキラの内容」「日付」「キラキラを記入した保育者」を5歳児時代の1年分だけ1人ずつ、A4、4枚程度にまとめて卒園児が通う小学校に送付しました。受け取った小学校側も、対応に困るほど稀有な「保育要録」だったと思います。さらに、私たちは、『日本中の「保育要録」が“キラキラエピソード”を綴ったモノに改めてほしい、そしたら子どもはもっと良く育つ』そんな思いを込めて「ぜひ、この続きを学校でも書いてくださいネッ」と直接、お願いもしました。

5歳児の子の“キラキラ”を書くのは、担任だけでなく、乳児クラスや調理室を含めた保育者集団でした。「みんなでみんなをみる園づくり」という運営方針に沿うものになりました。

毎月、「どの先生」が、「何枚の“キラキラシート”」を書いたのか、集計し見える化にして、保育者の意欲を促します。乳幼児すべての子どもが“キラキラ”の対象ですから、多くの子どもの“キラキラエピソード”が、毎日、書き溜められ、毎月、総数は数百枚に及びます。このような取り組みを、私たちは単なる「記録」ではなくて有効性の高い「教育手段」であると捉えています。世田谷はっと保育園でも“キラキラシート”は日常的によく書かれて機能しています。

それは保育者の資質向上策であり、良い教育・保育の“根っこ”の取り組みだと考えます。

その一方で、「キラキラシート」を「教育手段」って言うのは、ちょっと大袈裟じゃないの、と考える人たちが(日本の)世の中には、いっぱい、いっぱいいると推察できます。

「教育の成果」は、個人の中の「知識や情報の量」ではかられると解釈している人たちが、日本や東アジアにはたくさんいます。また「人格教育」と言えば、倫理や道徳を思い描いて、あるべき“人の道”を教え込むことだとイメージしてしまいます。けれども、実際、「やさしくなりなさい」「思いやりなさい」と諭されても、早々、そんな気になれないのが“人の心”です。子どもたちは純粋ですからその場では殊勝に“わかったつもり”になりますが、学童後期になるとウザイと感じ、反抗心が芽生えて、表に裏に歪んだ行動に現れると言ってよいと思います。

なぜ、「教育手段」といえるのでしょう。保育者自身が豊かになる取り組みでもあるからです。絶えず自己の内を見つめ、人格や感性を磨いていくことは、保育者の大きな努めです。個々の保育者が、日々の保育の中で子どもの“キラキラ”を“シート”に書き記す行為のなかで「内省力」や「気づき」、「寛容さ」や「子どもの行動の意味を理解する力」が磨かれると信じています。

一朝一夕に行かないにしても日々の積み重ねのなかで、徐々に磨かれることが期待できます。子どもたちにも「友達の良いとこ探しで、その子自身が豊かになる」ことを期待します。

昨年度、子どもどうしでも「キラキラ」のやり取りがありました(“キラキラの木”が茂りました)。友達の良いところをみんなの前で発言する子どもの眼は、輝いていました。友達から良い事を言われた子どもは、表情が輝いていました。友達から「褒められる事で育つ」、友達の良いところを「褒める事で育つ」。この両輪が機能して、様々な「教育」が可能になると考えます。

昨年度(今年2月)のそら組の発表会のお稽古の最終場面を見て、感心した事があります。

クラスを2つのグループに分けて2つの劇が演じられました。様々な理由があって、本番前日まで変更、変更、変更のくり返しでした。「クラスのすべての子どもがよくついてくるな」「誰もダレたり投げ出したりしないで、厳しい試練によく耐えているな」と傍観していた私は、正直、子どもたちに畏敬の念さえ抱くほどでした。担任に創意があって、子どもを信じているから変更(改良)が重なっても大丈夫でした。終盤は、1つのグループのお稽古(劇)をもう1つのグループが“観客”になってみるのが常でした。時々、私もビビるほど大きなカミナリが落ちます。

けれども、毎回、事後、必ず“観客”に“キラキラ”について発言を求めます。「○○くんのこの台詞がかっこいい」「○○ちゃんのこの動きがすばらしかった」、観客は、次々に挙手して褒めました。お稽古特有の重い空気が暖かな風に変わります。子どもなりに「お稽古する友達の辛さ」を感じるから懸命に褒めるのかもしれない。自分が演じる時、事後、“観客(友達)”から、「褒められるからがんばれる」。胸が熱くなったこの場面において、演技ではない本物の「思いやり」と「やさしさ」が“キラキラの木”の根っこで広がっていると実感できた一幕でした。

週刊メッセージ“ユナタン”15

2016年5月15日 日曜日

ユナタン:15≫ in 種の会

~ サーキット運動:昔と今のおはなし ~

平成28年5月3日  片山喜章(理事長)

法人7施設(保育園3、こども園4)で共通する「教育プログラム」があります。

皆さん御存じの「サーキット運動」です。乳児から幼児まで“みんな”が、とても楽しく取り組んでいます(“みんな”という表現は安易に使うべきではありませんが「サーキット運動」に限っていえば、妥当な表現です)。長時間、園の中で過ごす子どもたちにとっては、身体機能を確実に高める効果もあって“生活必需プログラム”の1つであるといっても過言ではありません。

法人の定番活動に至る経緯を私個人の体験と重ね合わせるなら、40年前の1976年、神戸市須磨区のモデル幼稚園で見学即実際にジャージに着替えて新米研修生として参加したことからはじまります。経済学部在籍の学生で、5歳児の子どもが、どのくらいの体格なのか想像さえできない、まして幼稚園、幼児教育の世界は頭の隅にもない無縁状態のまま、サーキットをする5歳児の子どもに出会いました。大学では「マルクス」などをヒッシに勉強していたこのド素人の第一印象は、「コマネズミのような奇妙な光景!」だけど「合理的な指導法だな!」、でした。

体育遊具は、大工さんが作った特製のハシゴや平衡板、大中小のボックス、厚さの異なる多彩なマット、タイヤもバイクタイヤ、大きなレーシングタイヤから小さなゴーカートタイヤまで大量の新品が用意されていました。そこで7~8人の研修生が開発者の故水谷教授(元祖サーキットの命名者)の下で、数々の遊具を如何に組み合わせるか、あれこれ検討してコースづくりをし、40数名の子どもたちを迎えます(サーキット用の巧技台がまだ製作販売されていない時代です)。

1列に並んで、行ったり、来たりのジグザグ上のコースを駆ける姿。様々な遊具を組み合わせた障害物をきらきらした表情で移動する姿。見ている方が飽きるくらい、何周も何周も飽きずに試技を続けます。頭や額から汗が滲み出ていることを誇らしげに訴えます。50分以上、持続する子どもの体力は、不思議というより異様な感じでした。子どもは色んな事に目移りして飽きやすい存在だと漠然と理解していた当時の私はどう「解釈」してよいのかわからず、その「疑問」はこんにちも尚、持続し、私を子どもに関わる仕事に従事させている大きな要因です。

毎週1回、3コマ、サーキットをした後、水谷教授と研修生は“振り返り”をします。大人より明らかに体力が劣る幼児が、50分間も動き続けられるのは、「回復力の速さ」(ミルキングアクションが作用)が在るからです。激しく動いても、わずかな休息で即回復するのが子どもです。ということは、幼児は、不断に「運動欲求」を生理的次元で保持している、そのような「子ども理解」を大前提に「体育指導法」は考案されるべきである、と自分なりに会得しました。

「体育指導」といえば(法人設立前、15年くらい体育指導者で生業を立てていました)、跳び箱の開脚トビ、逆上がりができる、そこをめざして指導するのが、体育指導者の務めだとイメージされがちです。けれども認可の保育園、こども園の場合、公教育ですから、指針に沿って指導法を工夫することが責務です(スポーツ教室は各家庭で選択する習い事なので別です)。

法人全体で「サーキット運動」という「枠組」(内容が多彩なので「枠組」と定義)を取り入れているのは、「体力づくりという目的」を、もう1つの幼児教育のテーマである「探究心や意欲づくり」という理念と「相乗的に実践」することができるからです。ですから、跳び箱=開脚トビを単純に目標にしないで、よじ登りも意義深い動きと考えます。個々によって思いは違うし、同じ子でも周回するたびに気分が変わり、チャレンジしたい動き方が変わります。そのような“まなざし”で個々の子どもと関わる事が指導者の努めです。当然ですが、開脚トビが跳べるようになりたいと願う子には、その願いを叶えるような“ノウハウ”を用いるのも指導者の努めです。

1歳児でさえ、目の前の遊具(障害物)を越える方法を自分の能力と相談しながら、動き方を自分で考えて実行している姿が観察されます。4,5歳児になると登り坂の設定に対して、駆け上がる子、あえて腹ばいで登る子、その子なりの「身体的探究心」を満足させています。身体的な探究心を発揮した結果、体力が向上する。まさに「一石二鳥」、「合理的な指導法」です。

40年前に「合理的」と感じたのは、体育館という「限られた空間」、50分という「時間」、そして40名を超える「大勢の子ども」、そんな「制約」の中で“みんな”がたくさん汗をかいて多彩な動きを経験できる様子を見たからです。そして指導経験を重ねるほど“奥深い指導法”であると実感します。当時は、ケイタイもTVゲームもなく、8ミリが浸透し始めて、ホームビデオがわずかに普及し始めた頃でした。当時に比べると現在は、過剰といえるほどの情報の刺激を受け、TVゲーム等のバーチャルものを手指だけを使って興じる時間が増えています。それ故に調整力全般を養うサーキット運動は、日常的に必要性の高い活動であると確信できるのです。

しかし最近、持続時間が低下している傾向を感じます。TVやビデオ、TVゲームによるバーチャルな刺激が、子どもの身体的探究心を奪っているという推測と、サーキット向けの遊具が既製品化されて多数、出回り、指導者の創意が劣化していることも要因の1つだと考えます。

私は、これまで様々な条件の下で、1万回を越える指導に従事してきました。椅子とテーブルと傘たてだけで変形コースをつくったり、半分の子どもがコース上でマットやトンネルや台になって交替する“ニンゲンサーキット”をしたり、常に厳しい状況で創意を磨いてきました。

同じコースで、同じ1歳児でも、私がそこに居ると子どもは良く動き、居ないと散漫になると担任たちは言います。なぜでしょう? 教育現場には、“未解明な事”がいっぱいあるのです。

週刊メッセージ“ユナタン”16-①

2016年5月25日 水曜日

ユナタン:16≫ at はっとこども園  

~ “その子らしさ”が育つ素敵な関係って? ~

平成28年5月18日  片山喜章(理事長)

今年度から2歳児なぎさ組は、0・1歳のおひさま組と同じ、1階の保育室で過ごしています。

これまで、2階の別館?で過ごしていたなぎさ組は、どちらかといえば、幼児クラスの影響を受けていたように思われます。今年度早々、こんな「ドラマ」がありました。

昼食準備が始まる前のランチルーム、なぎさ組のAちゃん、Bちゃんが遊んでいました。

ボールを取り出して、互いに転がしては追いかけたり、強く弾ませては視線を上下させて、捕まえに行ったり、2人にとってボールは、ワンダフルな玩具になりました。

けれども、好きな色にこだわって1つのボールを取り合ったり、弾力性のある方のボールを奪い合ったり、いかにも2歳児らしいマイルドなトラブルもコロコロしていました。

と、そこに、午前睡から目覚めたばかりの0歳児のCくんが、担任の先生に連れられてやってきたのです。Cくんは、寝起きでぐずぐずしていたらしく、担任は、気分転換をねらってランチルームに連れていくことにした、とのことです。ご機嫌斜めだったCくんの視界に入ったのは、いつも隣のお部屋にいる2歳児のお姉さん、Aちゃん、Bちゃんの姿、そして、ボールです。

お姉さんたちがボールであそぶ姿を眺め、そのうち、転がるボールに目を凝らし始めたので、担任とCくんは、とりあえずその場に座ることにしました。

と、そこに、コロ、コロ、コロ~とボールが転がってきたのです。Cくんの機嫌は一気によくなってボールに触れようと試みました。ボールを追いかけて来たAちゃんの足が止まります。

「どうしよう」「返してほしいなあ」とAちゃんの顔色はそう言っているのに、言葉に出せずに立ち尽くしたままの状態でした。Cくんは、ボールをなで、なでしたり、にぎ、にぎしたり、すっかり笑顔になって、とうとう声をあげて楽しさを現わすようになりました。

そして“エ~イ……”。Cくんが転がしたボールはゆっくり、ゆっくり、Aちゃんの方へ転がっていきました。「ん、やった~、ボールが戻ってきた!」とその瞬間、Aちゃんは感じたにちがいありません。担任は、「どうするだろう」「きっとまた自分で遊びはじめるだろう」と思って見ていると、なんと! Aちゃんは、ボールを拾うと、Cくんに返してあげるようにゆっくりと転がしたのです。Cくんは、Aちゃんお姉さんが転がしたボールを懸命に受け取ろうとします。

そして、今度は、目を輝かせ、明らかにAちゃんお姉さんをめがけて…“エ~イ!”

歳の差のあるAちゃんとCくんの2人は、2人で遊んでいると誰の目にもそう映りました。

これが、5月早々の2歳児の姿です。2歳児といえども、自分よりはるかに年下の子には“やさしさ”を現わすのでしょうか。私は、“やさしさ”とか“思いやり”という表現は適切ではないと考えます。“仕方ないから譲ってやるか~”という気になって、若干、自分を抑制したように感じます。もしもAちゃんとCくんが姉弟の関係だったらどうでしょう。もしかして、邪険にボールを奪い取ったかもしれません。なので、自然な自己抑制の賜物といえるでしょう。人間の内に潜む“やさしさ”は、自己抑制機能がつくりだした“宝物”なのかもしれません。

そしてそれから…、くりかえしCくんにボールを投げさせて遊んであげていたAちゃんは、すぐに飽きる頃かなと思いきや、今度は、ボールをバウンドさせて見せました。すると、Cくんは、声を発して喜びます。Cくんの喜ぶ姿に刺激されて、これはもう自己抑制ではなくて、ともに楽しもうと自己発揮しているようでした。「きゃッきゃ」と声を出し合って、なんども遊んで(あげて)いると、この2人の様子が気になったのか、とことことBちゃんが寄ってきました。

今度は、極自然な流れのなかでAちゃんとBちゃんがいっしょになって、Cくんを喜ばせようとします。それは「2人の共通の楽しみ」になっていました。“どんなことをしたらCくんは喜ぶだろう?”とこそこそ話し合って、Bちゃんは「お姉ちゃんがしてあげる、なっ」と言って、Cくんのボールを拝借し、Aちゃんと遊びモデルを見せようとします。すると、Cくんは不愉快な顔になり、すぐさま、それに気づいてボールを手渡します。まさに、「自分を出したり、抑えたり」、「発揮」と「抑制」が心の中でグラディエーションを描いているのが見え隠れします。

最初、AちゃんとBちゃんは、2人で1つのボールを使って遊ぶことは、ほとんどありませんでした。けれども、自分たちよりも年下のKくんが現れると、ボールよりもワンダフルな存在に映り、力を寄せ合っている姿が見て取れました。同年齢(クラス別)の友達どうしだと、張り合って、競い合って、盛り上がって、それなりに自分を出したり、引いたりしますが、異年齢の友達になると、待ってあげたり、貸してあげたり、手伝ってあげたり、喜ばせてあげたり、たまには、ウザイと邪険にしたとしても、おおくは、“率直に譲る”という“生き方”を経験します。

今回の2歳児の2人も間違いなく0歳児、1歳児の時、年上の子どもたちにかかわってもらったと思います。そのような経験があったからこそ、このような姿をみせてくれたのでしょう。

今年度、なぎさ組が1階に降りたことで、0歳児、1歳児の姿がかえって落ち着いたように感じます。AちゃんもBちゃんも、0歳児、1歳児の子どもとふれあう機会が増えました。一方、かもめ組の「お手伝い保育」「フリーデイ」において、3~5歳児にかかわってもらう日常もあります。こんなふうに年上、年下、同じクラス、若い先生、年配の先生、若そうにみえる先生等、多様多彩な関係を通して“その子らしさ”が作りだされるのだと思います。 【資料提供:溝上】

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ユナタン:16≫ at なかはらこども園  

~ 自己主張(自分らしさ)をつくりだす少人数保育 ~

平成28年5月20日  片山喜章(理事長)

 なかはらこども園には、148名の子どもが在籍しています。幼児クラスと3.4.5歳児は、それぞれ1クラス30名強の子どもが居ます。この集団規模で、個々の子どもが自分を発揮しながら友達と協同して、学びを深め、心地良く園生活を送るには、やわらかな英知と観察力、そして工夫する力(仕掛けや仕組みづくり)が、保育者集団には必要で、日々、挑戦しています。

小中学校においても「アクティブラーニング」の名のもとに少しずつですが、「子ども集団が1人の教師に教えられる関係」から「子どもどうしの学び合う関係」にシフトされつつあります。そして、教師や保育者には、子どもどうしがかかわり合って、学び合えるような「環境」を用意したり、それにふさわしいテーマを投げかけたりすることが求められています。

実際、なかはらこども園では、子どもどうしが課題に出会い、トラブルになったとき、できるだけ「保育者」に頼らず、子どもたちどうしで解決できるように「ハッピーテーブル」のように子どもどうしで話し合う“公式の場”を設けて、子どもたちもその使い方を会得しています。また、普段の保育も極力、小グループを中心に実践しようと努めています。

5月の連休明け、4歳児くま組のエピソードです。

今回、「当番活動」のためのグループをつくることになりました。1グループ5、6名ずつの合計6グループができました。まずはじめ、それぞれのグループが、それぞれグループのなかで、グループ名を決めるという活動からはじめました。

Aちゃんが「きつねグループがいい」と提案しました。すると、「え~、きつね?おうどんみたい」と笑って、Bちゃんを筆頭に他の子たちは、反対しました。しかし「きつねがいい!」というAちゃんの勢いに押されて、何となく“Aちゃんのきつね案でもいいか~”と賛同する子が増えて、それで決まりそうな雰囲気になりました。そして、話し合ううちに、とうとう反対するのは、Bちゃんだけになってしまいました。Bちゃんは、はじめは、自分と同じように反対していた仲間が、次々に賛成にまわることに“悔しさ”を隠しきれずにいました。

私はこの気持ちがすごく理解できます。同じ仲間が「味方」から「敵」に感じる瞬間です。

と、そこに、普段トラブルを避け、みんなの前ではあまり意見を述べない同じグループのCくんが、この状況に何かを感じて「提案」をしだしたのです。担任は少し意外な感じがして、グループの仲間も同じように驚いて、みんなの意識がさっとC君の方に集中しました。

C君は「これではいつまでたっても決まらないので、Bちゃん対、他4名でじゃんけんして決定しようよ」と提案したのです。少しの沈黙があって、Bちゃんは、吹っ切れた表情で、「しんどいから、もういい、もういいわ…」と言いました。Bちゃんは、最初味方だった仲間が、それこそきつねにつままれたように、「Aちゃん案」に流れていくなかで、C君が彼なりの「解決案」だしてくれたことが、何となくうれしかったのではないかと感じられました。

そこで、担任の先生は「Bちゃんは、ほんとうにそれでいいの?」と念を押しました。Bちゃんは微かにためらって、そして頷きました。(Bちゃんは日頃、自分を通すことが多いので・・)

さて、その次の活動です。「グループの名前」と「メンバーの名前」を表記する「台紙の色」について、話し合いで決めることになりました。グループのメンバーはそれぞれ思い思いに色の名前を口にします。Bちゃんも「むらさき」と自分の好きな色を言いました。

もしもこれを30名のクラス全体で一斉にしたなら、どうなるでしょう。あちこちからいろいろな色があふれ出て、声をあらげることを楽しむ子もいて、収拾がつかず、担任は「静かに!」と、一喝することさえ予想されます。「1人の担任が居て、そこに多くの子どもがいる状況」では「名前決め」の名の下に“わいわい”大声を出し合うことが楽しくなって、いわゆる「思考停止」の雰囲気に流れやすくなります(これがいままでの一般的な教室、保育室の風景です)。

けれども、5人のグループであれば、解決の主役が自分たちですから、いつまでもわいわい言うわけにはいかず、なんとかまとめようと努めます。このときの話し合いでもまた、最終的に、Bちゃんの“むらさき”とその他の子どもの“きいろ”が対決する形に至ったのです。

どのように決めるだろう、担任が静観していると、Bちゃんがはっきり切り出しました。

「さっきは、私が我慢したから、今度は、“むらさき”にしたい!」と主張し、他の仲間は少し考えました。それぞれが、それぞれの顔を見合って「どうしよう?」という表情に変わります。

そこでまた、C君が「“むらさき”でいいやん」と口を出し、周りの子どもたちも「そうそう、“むらさき”にしよう」と納得というより、Bちゃん、C君の勢いを受け入れて“むらさき”に決定しました。私はここに、日本人特有の“妥協力”“オモイヤリ”を感じてしまいました。

A、B、C、それぞれ主張しました。日本の場合、「意見を出し合いなさい」と言いつつ、自己主張が強いと「譲りなさい」「少しは抑えなさい」と諭す教育者や良識のある大人が多いのです。この是非については、日本社会全体の風土ですから、今はなんとも言えないところがあります。

けれども、C君のように、ここ1番で自分の感じた事、考えた事を主張することで困難を解決に導く一助になる考える思考方法は、民主主義の原動力になり、これからの日本社会全体に欠かせない(新しい)人格であり、教育、保育の中心課題になると思います。 【資料提供:伊勢】

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ユナタン:16≫ at ななこども園    

  ~ 「だれがするの?」 「ありがとう、やんか!」 ~

平成28年5月22日:片山喜章(理事長)

ご存知のようにななこども園では「お当番活動」を「集団作り」の1つの手立てとして大切に考えています。2歳児うめ組の子どもたちも「おとうばん」を意識しています。1グループ4人~6人、それぞれのグループに日替わりで1人のお当番が居て、「出席調べ」から「食事の際の配膳、盛り付け」もお当番さんが中心になってグループを“機能”させる生活を送っています。今回、連休前のおやつの時間のことでした。4歳児あさがお組のお部屋です。

この日の「お当番」だったA君が、早迎えで降園したので“おやつの当番”をする人がいなくなりました。同じグループのBちゃん、Cちゃん、Dちゃんは、この事態にすぐに気づいて、「だれがするの?」と相談しはじめたのです。そして、3人とも「したい」と主張します。

特に、CちゃんとDちゃんの勢いは凄まじく、Bちゃんは圧倒されて、すぐに黙ってしまいました。担任が、Bちゃんに気持ちを尋ねると「…したい…」と答えるけれども、Cちゃん、Dちゃんに対しては、なかなか自分からは言えず、伝えづらそうにしていました。

他のグループは、次々におやつの用意をします。3人に“焦り”が忍び込みます。そこで、業を煮やしたのか、Cちゃんが二人の手を引いて、部屋を出て、3歳児ゆり組の前のスペースで話し合いを始めたのです。担任は、隣で座って聞いていました。話を進めていくのは、Cちゃんでした。「じゃぁ、3人でする?」と、Cちゃんが持ちかけると「いや!」と返事するDちゃん。「Bちゃんは?」と尋ねられると、同じように「いや!」と答えます。さらに、Dちゃんは、Bちゃんに向かって「Dは一人でしたいの!」と語気を強めて訴えます。「そ~か~、Dちゃんは一人でしたいんだ」とCちゃんが共感すると、静かにうなずくDちゃんでした。

しかし、Dちゃんは、強く言い放つとすぐに黙ってしまいます。澱んだ沈黙に包まれます。そこで、担任の先生は「せんせいは、Bちゃんでも、Cちゃんでも、Dちゃんでも、3人でしてもいいけど・・・どうする?」と話しかけました。そばで気にかけていた違うグループのお当番のEちゃんが、その場にやってきて、「3人で、じゃんけんしたら」と提案しました。

「イヤだ!」「この話は自分たちのグループで決めることやから!」と、ここは3人が同じ気持ちになって、Eちゃんに伝えることができました。そこへまた、別のグループのFちゃんが「どうしたん?」と気にかけてくれました。特に、もじもじしているBちゃんとDちゃんに対して、「じゃ~、したいんだったら、“していい?”って、ちゃんとお願いしたらよいのに…」と少しイラッとして訴えます。担任がニンマリしてしまうような発言でした。

さらにFちゃんの言葉は続きます。「Dちゃんでいいの?」「Bちゃんが一人でしていいの?」と双方に尋問するように問いかけます。するとCちゃんが「じゃあ、Cはもういいから二人で決めて」と“降板宣言”をしました。思わぬ展開に担任が「本当にCちゃんいいの?」と確かめると「いいよ、いいよ。次のお当番の時頑張るから」とふっきれた表情で答えてくれました。“自分たちの気持ちを言えたし、Eちゃん、Fちゃんもわかってくれたし、それに速くしないとおやつが食べられない”。Cちゃんなりの決断かもしれません。「自己主張」をしっかりすることで、かえって「状況を感じ取る力」と「譲る気持ち」が育まれたのかもしれません。

ああだ、こうだと言い合う2人に、Cちゃんが「あのさ、なんでそんなにお当番したいの?」と理由を尋ねます。Dちゃんは“台を拭きたいから”、Bちゃんは“配るのが嬉しいから”と説明します。Cちゃんは、二人の返事に「そっか~」と共感して「どっちも気持ち分かるけど…でもどうする? 二人いっしょにするのは嫌なんやろ~?」と思案しはじめました。

すると今度は、Bちゃんが「じゃあ、Dちゃんでもいいよ」と言いだしました。

「え? いいの?」と、Cちゃんが反応し「いいの? 今日できないよ! あんなにやりたいって言っていたのに何でよくなったん?」と突っ込むと、Bちゃんは「だって、Dちゃんがしたいって言うから…」と応えます。Cちゃんは「えっ! Dちゃんがしたくても、Bちゃん、自分もしたい!って、言っていいねんよ。本当にOKなん?」と迫ると、Bちゃんは「うん、だって、Dちゃん、お当番上手やもん。私は今度するから」とかなりしっかり答えました。

CちゃんはBちゃんに「じゃー、ほんまにいいねんな!」と念を押し、「Dちゃん、BちゃんがOKなんやて~」と朗報を伝えます。Dちゃんは頷きます。それを見たCちゃんは、咄嗟に「ちがうやろ!」「ありがとう、やんか!」と口調を荒げて言うと、Dちゃんは「ありがとう」と言い、Bちゃんからは「いいよ」の言葉が返ってきました。そこでCちゃんは、まるでセンセイのように「Bちゃん、ありがとうな」とBちゃんを労い「あのなDちゃん、Bちゃんもしたかったんよ」と、Dちゃんを諭します…‥。「さあさあ、遅くなったから早くしよう!」というCちゃんの掛け声で、このグループの“おやつの用意”がはじまりました。

A君のかわりに「だれがするの」で揉めた当番活動。お当番をしたかったCちゃんは一応、納得して、諦めて、さらにBちゃんに“安易な妥協”をさせまいとし、それでも最後に譲ったBちゃんの気持ちを察して、黙って頷くDちゃんにかけた言葉、「ありがとう、やんか!」。

問題が生じて、突っ込んで話し合うと感情は高ぶります。日本社会には、これを避けたがる傾向があります。“安易な妥協”ではなく、とことん話し合いをすると、同じ結果でも“納得”が生まれます。私たちが子どもたちから学んだ一件でもありました。【資料提供:池 朝日】

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ユナタン:16≫ at 池田すみれこども園

~ 子どもが主役の「お誕生会」 ~

平成28年5月22日 片山喜章(理事長)

「お誕生会」は、こども園、幼稚園、保育園ではお馴染みの行事です。しかし大多数の園では、先生たちが事前に「出し物」を準備して、「司会進行」も行います。ごく「普通の事」だと誰もがそう思います。けれども、ここ「池田すみれ子ども園」では、5歳児において「子どもが主役プロジェクト」に挑んでいます。私とガッツあふれる担任たちが話し合って「子どもが企画進行する誕生会」と「やりきるクッキング(たこ焼き)」を4月から取り組みました。今回、「子どもが企画進行する4月の誕生会」のあらましと教育的な値打ちについて、あれこれ、お伝えします。

「子どもが主役」といっても、5歳児白組の子どもたち全員がいっしょに参加するやり方ではなくて(一斉方式の教育方法は日本の教育の弱点で課題です)、グループ活動として、じっくり話し合って企画しました。6名の子どもが4月の企画者になり、担当は(ここが肝心)担任ではなくて、乳児職員が輪番に行うことを原則にしています。できるだけいろんな先生と関わり合う方が(子どもも職員も)豊かになる、と考えるからです。毎朝、異年齢の6グループにわかれて“サークルタイム”を設けたり、コーナー&ゾーン保育を重視したりするのも、その現れです。

さらに(ここも肝心)、池田すみれのように施設が広く、乳幼児が上下にわかれて生活すると、どうしても乳児と幼児の職員交流がしづらくなります。乳幼児連携は、日本の多くの園で課題になっています。それを解消する手立てとしても、白組の6人の子どもたちは、乳児クラスのB先生と誕生会の2週間前から、お昼に時間を見つけては話し合いを繰り返していました。

B先生と子どもたちは、まず誕生児に質問(インタビュー)する内容を話し合って決めました。はじめは、たくさんの提案がなされましたが、「質問が多くなれば長くなる=それはよくない」という子どもの意見で4つに絞り込むことから始めました。そして“MCをするのは誰”と話は進みます。2人が“やりたい”と言って、結局、じゃんけんでA君に決定しましたが、リハを重ねるうちに、質問内容を覚える自信がイマイチのA君は、じゃんけんで負けたB君に“譲る”と言って辞退しました。「情けないな」と評価しないで、“やりたい”と意気込んだけど、実際、リハでやってみると、自分には荷が重いことを悟り、B君に譲ろうとしたA君の判断は、評価に値すると私は考えます。そして、各クラスの歌の紹介は、また別の子が担うことになりました。

さらに「ピアノは誰?」という話題では、Cちゃんから“憧れ”のOR先生の名前がでました。

「OR先生?」「できるかな?」「ピアノ、ヘタやで!」「無理ちゃうん?」とモメたのでした。

「早くお願いして、ちゃんと練習してもらおう」と決まって、早速、OR先生にお願いに行きました。OR先生も企画チームからのオファーですから、光栄な話であり、期待を裏切れないこともあって、その日から、ひたすら黙々と、猛特訓をはじめたのでした。

クラス別に歌をうたう順番は、些細な事も話し合って決定し、以前、好評だった「クイズ」は、「担任の先生に任せて、自分たちもクイズを楽しもう」と合意に至りました。誕生会で披露していた恒例の誕生児による“特技”は最後にして盛り上げよう!と話し合いも盛り上がります。

誕生会当日まで2週間、B先生は、可能な限り、お昼、集まって子どもたちと話し合いや練習をしました。「できるかな~?」と期待以上に不安が大きく、最初の頃「企画会議」を招集すると「おれら、まだ遊びたいけど~」と不満の声があがり、チ~ンと沈むこともありました。

しかし、話し合いを重ねるうちに「誕生会」は自分が企画するんだ、そんな主役意識が芽生えたのか、B先生と廊下ですれ違うと「せんせい 次いつ話するん!ずっと待ってんねんけど」と子どもたちは怒りを現わすほど意欲を出して、遂に「4月誕生会係り集まれ~!」と仕切る子どもが出て来て、B先生は大助かりです。以降、先生が子どもを頼りするようになりました。

当日、B先生がドキドキしながら企画の子どもたちと会場づくりをしていると、主任のS先生が「司会らしく蝶ネクタイでもつくってあげよう!」と魔法使いのようにササ~ッと作り上げて首筋につけて、すっかり司会者らしくなり、子どもたちのテンションはグンと上がりました。

「事後の振り返り」、それが教育として大事です。「誕生児が多いので質問は減らした方がよかった」「恥ずかしがって質問に答えない子にどう言えばよかったのか」「蝶ネクタイ、ありがたかった」。そして、最後に互いにメンバーを褒め合う言葉がどんどん出てきて、やわらかな気持ちになって達成感を分かち合いました。で、「次は10月、もっとがんばろ~」で締めました。

「園行事」を自分たちで担う。当日の司会だけをするものではなくて、どんな内容で、どんな手順で行うか、そこを任され、本番を委ねられる経験。メンバーが6人なので自分を発揮せざるをえなくなる。一方、このような保育は“アイデア倒れ”に陥って、結局、担当者の意向が強く出る可能性(危険性)があります。私たちは、2週間という期間の中で「準備の話の進め方」と「振り返りの方法と内容」に重点を置きました。また担任以外の乳児職員が、担当することで、その保育者も子どもたちも“新鮮な緊張感”に包まれて創意を発揮しやすくなると考えます。

自分たちが企画して、大勢の前で進行し、さらに「事後の振り返り」で互いに褒め合って終わった誕生会。他の白組の子どもたちは、次に自分が企画する時の事を考えながら見入ったにちがいありません。緑組、黄組のお客さんたちも、今までにはない“おもしろさ”を味わって、誕生児でなくても、小さな“主役意識”がプレゼントされたように思います。 (資料提供;馬場)

週刊メッセージ“ユナタン”16-②

2016年5月25日 水曜日

ユナタン:16≫ at もみの木台    

~ 共感するのはタイミング ~

平成28年5月22日  片山喜章(理事長)

毎朝、8時15分まで、0.1歳児クラスにじ組と2歳児クラスそら組は、同じ部屋で過ごしています。ですから、この時間帯は、乳児クラスの異年齢保育と言うことができます。

連休明けのことです。にじ組の1歳児A君は、朝、お母さんとバイバイする時は、涙を流してしまいます。けれども、お母さんの姿が見えなくなると、特にお気に入りの玩具がなくても、涙は止まります。A君はその日、“ブロック”が入っているカゴの近くに座っていました…。

先生は、ブロックの近くで“おままごと”をしている子どもたちに寄り添って、エプロン付けを手伝ったり、三角巾をつけたりしながら、“おままごと”が盛り上がるように言葉をかけていました。実はこの場面、多くの保育者が思案するところです。“言葉かけ”の大切さは、知られていますが、では“適切な言葉かけ”とは何ですか、と問われると、これ!という定説もなく、ケースバイケースです。なので、思案の連続です。その場を盛り上げようと先生の言葉数が多くなり過ぎると、いつしか恣意的になって、子どもから生まれ出るイメージを妨げます。かと言って、黙って“そこに居るだけ”ならイメージが停滞し、遊びが広がらない可能性もあります。

しかし、そんな迷いを取り除いてくれるのは、たいてい近くに居る子どもです。

「センセ、見て~、でんしゃ!」の声。ブロックで遊んでいた2歳児のB君です。

ブロックでこしらえた「でんしゃ」を先生に見せにきたのです。「そう、でんしゃ、なの」と“言葉”を乗車させると「トーキュ~」と返してきたので、先生は、ついつい、嬉しくなって、「何線?」「どこまで行くの?」「次の駅は?」と次々に問いを発して盛り上げに努めます。B君の目をきらきらしたままですが、問いに対する返事は“あやふや”で困惑気味でした。

「よくない言葉かけだったかな」と感じた先生は(彼の頭の中は私の質問でぎゅ~ぎゅ~。まるで田園都市線状態?)、それからはB君の発した言葉に相槌を打つように努めていました。

と、そこへ、泣きやんで間もない1歳児のA君が、自分からブロックに手を伸ばして遊び始めました。いくつかブロックを繋げながら、先生とB君が遊んでいた方をじっと見ていたのです。先生は“自分で造ったブロックを見てほしいのかな?”と思って、「A君…」と声をかけました。けれどもA君は“プイっ”と顔をそらしました。「…?」、先生は、その時、それ以上の言葉をかけることをためらいました。が、しばらくするとA君はまた先生の方をじっと見ます。そこで不思議に思いながら、もう一度「A君…」と声をかけましたが反応はさっきといっしょでした。

先生としては、まさに“どうしたもんじゃろうの~”状態でした。

“A君は、今は、私に話しかけてほしくないのだ”と考えながら、先生はB君と“続き”をしていると、またまたA君からの視線…。“一体、どういうこと…?”と思案して黙って、見つめているとA君は、自分から(いま造った)ブロックを先生に差し出してきました。

“まさに、このタイミング”と察した先生は、「造ったの?」と声をかけるとA君は「しゃ! しゃ!」と答えてくれました。先生は、続けて「でんしゃ! 造ったのね」と話すと、ニコっと笑いながら、「しゃ! しゃ!」とまた答え、またまた新しいブロックを繋げては先生に見てもらおうとしました。この「場面」をどのように解釈すればよいでしょう。

A君は、年上のB君が“電車をつくって遊んでいること”に興味を示し、さらに、そこで先生と対話している“楽しい雰囲気”を味わった。なので、その場では、先生の言葉(関わり)そのものが、欲しいのではなかった。だから、その時、声をかけられても“プイっ”とする。

真意は、自分も電車をつくってみたい、その電車を介して先生と話をするひとときが欲しい、そんなふうに解釈できるのではないかと思いました。

子どもが、とりわけ乳児が一人で、じっとしていると“何かしてあげなくては”と思うのが、保育者気質です。このケースでは、先生はA君のしたいことが察知できずに、ただ漫然とお愛想の言葉をかけました。ですから、結果は「プイっ」でした。お家でも、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さんとわが子(乳児)とのやりとりでよく見られるパターンかもしれません。

探求心のカタマリである乳幼児が、その時、抱いている“興味や関心事”を察知し、共感したうえで、B君と先生のように遊ぶ方が“してあげる”“かまってあげる”よりも、発達を大きく促します(その子が、その時、何を想い、何を求めているのか、アンテナを研ぎ澄まして、敏感に感じ取って、それに応える、それこそが子育てや乳幼児教育の基本であると考えます)。

1歳児のA君は、2歳児のB君が“電車”を造る姿に触発されて(模倣して)、自分も“電車”を造ろうとしました(見立てようとしました)。自発性が発揮されようとするまさにそのタイミングで、先生が声掛けしても興味を示さないのは当然です。そして、自分も造って、B君のように、先生に見てもらおうと、自分から関わりを求めたのです。はじめ、特に意味もなく関わろうとしてもダメでしたが、最後は、A君が求めたタイミングを先生がうまく捉えたと言えます。

この先生がすばらしかったのは、はじめに“プイっ”とされても、A君のことを気に留めていたことです。そして2歳児B君と“でんしゃ”でいっしょに遊んだこともよかったです。この“楽しげな光景”がA君の“やる気”を促し、自分で試みて(造ってみて)、先生に共感を求め、そして先生は応えました。絶妙なタイミングが織りなしたドラマでした。 【資料提供:廉菜】

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ユナタン:16≫ at みやざき保育園 

~ 話し合いからひろがるりんご組の保育(社会性の育ち) ~

平成28年5月20日 片山喜章(理事長)

 みやざき保育園の「園だより」に「地域のページ」“まちのひとにきいてみよう”が、あるのはご存知だと思います。5歳児りんご組の子どもたちが、地域に出向いて、インタビューするコーナーです。今年度から設けました。地域にあるいろいろな職場を訪問して、子どもたちが直接、お話を伺うことは、価値のある体験型保育です。出向く前にまず、“素朴な疑問”を想起するための時間を設けることは有意義です。そこに的をあてたのが今回のドキュメントです。

訪問先は、園だよりの5月号に掲載されているように、「宮前消防署」でした。その数日前、その下地になるような様々な取り組みがあったのです。

もともと、りんご組の担任たちは、「地域の職場見学」を計画し、折に触れ、子どもたちとも話を進めていました。まず、手始めに「保育園のまわりにはどんなものがあるんだろう?」と子どもに投げかけてから、お散歩に出かけたことがありました。そこで、子どもたちは、それぞれ、何かをみつけ、あれこれ考えていたようです。また、途中で、立ち止まって「あっ、○○○だ」「○○○は△△△するところだよね」と友達どうしで、話し込む場面もあったようです。

園に戻ってから、その日の感想を話し合ったあと、担任は、「では、みなさん、おうちの周りにはどんなものがあるのか、見てきてね、木曜日に、お話し聞くからね」と伝えました。

すると、その前日の水曜日、Aちゃんが担任の先生のところにやって来て、「わたし、駅の方に調べに行ってきたものを書いてきたよ」と持ってきてくれました。それを聞いた先生は“しっかり私の言ったことを実行してくれたんだ~”“興味をしめしているんだ”と、とても嬉しくなりました。そこで先生は、「じゃあ、これ、明日、みんなの前で発表しようよ」とAちゃんに提案すると、“っ、みんなの前で話をするの?”と躊躇しているようすが伺えました。

「せっかく調べてきたんだから、みんなに聞かせてあげてよ」と促す担任。少し困惑気味なAちゃん。そして、最後に「じゃ~先生といっしょにやろう」と導くと、Aちゃんは「恥ずかしいけど、がんばる!」と応えてくれました。そして、次の日、木曜日を迎えました。

登園時からドキドキしながら“お集りの時間”を待つAちゃん。

「じゃ~、この前のこと、Aちゃんに発表してもらいま~す」と先生の声が響きます。

Aちゃんは、前に出てきて、メモを取り出して、読みはじめました。「…銀行がありました」「…眼鏡屋さんがありました」「…公園がありました」。いずれも宮崎台駅周辺です。Aちゃんは端的に箇条書きまとめていたので、彼女の発言は、聞いている側もわかりやすかったのです。

Aちゃんの「発表」が終わると、子どもたちからは「すごーい!」の声があがりました。

Aちゃんが調べた行先に対する関心よりも「その、書いてある紙、見たい!」という発表の仕方に対する称賛の方が強かったです。先生は、すぐさま「Aちゃん、おうちに帰ってからも駅まで調べに行って、忘れないようにメモしていたんだよ」と後押しするように話をすると、自然な流れでクラスのみんなは、Aちゃんに拍手を送りました。Aちゃんの体からさ~と緊張感が抜けて、表情は、達成感と満足感でいっぱいになりました。

その日、翌日に消防署に行くこと伝え、合わせて、「消防士さんへの質問を考えてね」と話をすると、当日、B君とC君がAちゃんと同じように「質問」を紙に書いて持ってきました。

彼らは、自分たちも「消防署に行く前に、考えて書いてきたことをみんなの前で発表したい」と訴えて、発表しました。出発前、既に子どもたちの心に炎が灯っていたのでした。

※「消防車の速さ」「日頃の訓練内容」「燃え盛る火の中に入っていくテクニック」「消防車と救急車の運転手は同じ人」など、質問内容と回答は、園だより5月号に記載されています。

消防署から帰ってくるとしばらく“感動話”でもちきりになります、そしてお昼が過ぎた頃、今度は、D君が「いま、消防士さんにお手紙書いたんだ、これもみんなに発表していい?」と手紙を持ってきてくれたので、夕方、全員の前で発表しました。「ありがとう」や「また行きたい」という感謝の言葉、そして「訓練の様子をみたい」というさらなる希望。さらに、ちがう話題でも「手紙を書きたい」「書いたことを発表したい」…と、まさに火がついた感じです。

週が明けた月曜日、クラスの絵本が破れていたのを見つけたE君は、絵本を直していました。「このことをみんなに言いたい」と訴えてきて、実際、お昼寝前にみんなに“自分のしたこと”と“注意喚起”を含めて話をしてくれました…。

Aちゃんから始まった“みんなの前で発表する”こと。それが、クール!(かっこいい)。

発表する姿が“みんなの憧れ(新たな価値観)”になってきました。それまで「恥ずかしい」の気持ちが強くて、苦手意識をもつことが多かったクラスです。しかし、いま、クラス全体に自信を持って友達に自分の気持ちや考えていることを発信(発言)する雰囲気が広がっています。

“きっと小学校にもつながっていく”と、担任の先生は手ごたえを感じていました。

 

「地域社会や職業への関心」と「実際に訪問する取り組み」によって、子ども集団が変わっていった今回の実践。社会に興味・関心を抱くことは「社会性」を育むと言われますが、さらに興味深いのは、「社会への関心」が「自分の思いや考えをみんなの前で発言する社会性」を育んだことで、今後の教育・保育の在り方を考えさせられました。  【資料提供:川崎かおり】

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ユナタン:16≫ at 世田谷はっと保育園      

~ 「やりきるクッキング」=(C.P)の“下ごしらえ”は見ることから ~

                      平成28年5月18日 片山喜章(理事長)

4月25日、27日、つばさ組の“やりきりクッキング”がありました。

1グループ5人、5グループが2日に分かれて、1階の「みんなのへや」で行いました。講師はエトー先生です(衛藤副園長)。エトー先生は、たいそうお料理上手で調理師の資格を持っています。家庭でもその腕前を発揮して数々の創作料理をなさっています(うらやましい限りです)。

「5人1組の子どもたち」が「カレー作り」に出会うことから始まって、それが、どのように発展するか(させるか)、担任とエトー先生は、イメージづくりのための話し合いを重ねていました。この園に限らず、「幼児教育の世界」において、かなりミディアムレアーな取り組みであるだけに、子どもたちの興味、関心をしっかり洞察しながら、保育者側はアイデアを搾り出して、子どもに投げかけます。ですから「プランは、変容する」、そんなふうに確認し合いました。

このケース、大きく2つの考え方と方法があります。1つは、グループの子どもに任せて、ぐちゃぐちゃになりながら話し合い、なんとか、作りきる。すると食した時に「味」や「ダンドリ」について話し合いが及んで、自己評価もできます。その際、「準備の仕方」や「手順」など、話し合いのポイントを絞ると「次回の方法」について子どもたちのイメージは広がると思います。

もう1つは、まず、モデルを見て、ある程度やり方を会得し、そこに“やりたい”という意欲を煮込んだうえで実際にやりきって対話する。今回の方法です。さて、さて…‥‥。

まず、はじめに「カレーライスって、カレーだけつくるの?」の問いかけに「ご飯がいる!」の声。早速、彼らは意気揚々とお米をといで炊飯器に水をいれて、いざ、スイッチオン!・・? 「ランプがつかない!?」 予想通りの姿に先生たちはニンマリ。困っている子どもたちの姿をよそに先生たちは電気コードを手にしながら雑談。すると、ある子がプラグをコンセントに差し込むことに気づきます。(たいていの家庭ではプラグはコンセントに入ったままなのでしょう)

“大発見”をして炊飯器のスイッチをオンした子どもたちは、いざ、カレーづくりに向かって、やる気もオン。「お家で包丁買ってもらったんだー」「お家で切る練習もしてきたよ」とドキドキわくわくの子どもたちを前に、エトー先生は、突然、得意気にお料理教室を始めたのでした。

「ニンジンはイチョウ切りにして」といって、ホワイトボードに貼った写真を示しながら自身の腕前を披露。子どもたちは、ホ~と感心して、チャレンジ準備! とすかさず「ジャガイモは一口大に切って」「玉ねぎは薄切りか、一口大か、どっちが速く煮える」(薄切りの声)、

エトー先生は、まるでお料理番組の講師気分で、次々に切り方のお手本を実演します。

気がつけば、何もかもすっかり完了して、いざ点火。「あれ~?」子どもたちはひたすら見る、見る、ただ見るだけ、でした。そういえば、昨年、運動会のパラバルーンでも見て、見て“やりたい!”の思いを膨らまして見て、一気に会得した例がありました。今回、最初から最後まで、カレーが煮えるまで見て、見終えた子どもたちにエトー先生は、言いました。「先生が行なった工程を、次は、みんながやるんだよ」とお話して、お食事会(給食)です。

食後の「対話」の仕方について、担任の先生とエトー先生は悩みました。子どもの“やりたい気持ち”をあえて“させなかった”ことは、今後の取り組みにおいて“功を奏する”と予想できますが、この日、事後の「対話」を有効にするための、子どもへの投げかけ方が ? でした。

自分たちが実践した事なら、「対話」は弾み、会話の量に比例して、話の質は深まるものですが、ただ見ていただけの子どもたちに、一体、どんな話し合いをしてもらうのか、不透明でした。

さすがです。“司会と書記は先に決めてください”と伝えると、「誰が書く?」と書記決めをし、司会を決め、そのままの勢いで「誰がお米とぐの?」「私がやるよ」「誰か、ジャガイモ、やりたい人は?」「はーい」と2人が挙手すると、すかさず「じゃあ、2人で話し合って」と司会の腕前も冴えていました。しかし、会話は盛り上がりますが、話の焦点が定まらず、隣のグループが気になって「もうあっちは、にんじん切る人決まったよ」「向こうは横向きで書いてるよ(書記)」と不安になる子がいたりして……。「そうか! 実践してない一連の活動に対して、話し合いを求めるのはムリだった」と担任の先生とエトー先生は子どもから学んだ、とのことです。

概して、何でもかんでも、やりたい事がすぐできる環境では、逆に、やりたい事に挑むエネルギーが溜まらないように思います。「意欲」を促すには、適度な制約や制限があることで、かえって「意欲」は圧縮され、やりたい内容も方向もより鮮明になる場合があります。

今回の「C.P」を、次回以降、より創造的に有意義に発展させるために、あえて制約を設ける方がうまく行くと信じて行いました。「C.P」と命名していますがただの「カレーパーティ(C.P)」で終わるのか、「カレー作りプログラム(C.P)」になるのか、はたまた、カレー作りから、植栽に関心を持って食材づくりに広がったり、それを使って自給型のカレーづくりになったり、買い物に行って原価計算をしてレストランを始めたり、そんな「カレープロジェクト(C.P)」に発展していくのか、いまは、わかりません。9月まで、あと4回、C.Pは続きます。

10月頃、子どもたちはどんな経験をし、どんなチカラを体得しるのか、担任の先生やエトー先生はどんなふうに創意を発揮し、どんな「C.P」に仕上げるのか、私は、ただただ、見てるだけ、ドキドキわくわくしながら見ることにしましょう。(子どもに言わせたのかどうか定かではないですが「C.P」の時、子どもたちはエトー先生をミッキーと呼ぶのです) 【資料提供:長嶋 萌】

週刊メッセージ“ユナタン”17

2016年6月20日 月曜日

ユナタン:17≫ in 種の会

~ 「コーナー・ゾーン」の保育と「製作・制作活動」 ~

平成28年6月10日  片山喜章(理事長)

保護者の皆さまは、よくご存じ?だと思いますが、幼児クラスにおいて「コーナー・ゾーン」による保育が実践されています。その時間は、遊戯室、あるいはクラスを仕切るパーテーションを開けて広い空間を設けて。異年齢で活動します。先生たちは、あれこれ必死に考えて、多彩な遊び空間を設定します。子どもたちは、好きな遊び場所を選び、遊び相手も子ども任せになる保育です。

といっても、四六時中、「コーナー・ゾーン」で遊ぶわけではありません。

毎日、一定の時間だけ、「コーナー・ゾーン」で保育する時間を設けたり、週に1回程度、基本的に曜日を決めて給食までの時間、ず~と「コーナー・ゾーン」で活動したり、その両方だったり、そこは各園の判断です。各園の職員集団の創意とコンセンサスが期待される保育でもあります。

そして、法人内で、この「コーナー・ゾーン」による保育を、関西、関東、それぞれの地域で、お互いに観察し、評価し合い《支え合う仕組み》を作って、この保育の底上げをめざしています。

『…コーナー・ゾーンの保育って、ただの自由遊びじゃン!?…』

時々、こんな“本音”をぶつけてくださる保護者の方がいます。さらに、“子どもたちはとても楽しそうだけど、でも、でもねっ、これって、ほんとうに幼児教育なのかしら?”と素朴な疑問を抱かれている方が、おられる事も承知しています。確かに個々の子どもは、何を学びとっているのか、明言しづらい場面も見られます。もしも、わが子が「大好きだから!」と満面の笑顔で、特定の友達と、ずう~と“ぬり絵”ばかりしていたなら、親御さんは苦笑し“不安”な気持ちに縁取られてしまうように思います。保育者の側も、ふと「これで、いいのかな?」と疑問を抱く場面がなくはなく、ある意味、“意味のある、本質的な深い教育のテーマ”であると言い得ると思います。

けれども、「四六時中、「コーナー・ゾーン」で遊ぶわけではありません」と上述しています。

ですから、これ以外の保育(教育)、つまり「クラス別の課題活動」や「テーマを共有するクラス活動」も大切であると、認識しています。私たちは、コーナーに設定する素材や教材の選定とレイアウトの仕方に精力を注いでいます(めッちゃ、創意やセンスが問われます)。一方「子ども理解」と「教材研究」をセットで考えてクラス活動の充実にも挑んでいます。この“2つの指導性”は、双方を発揮するなかで、混ざり合い相乗効果が期待でき、時代に即した“あたらしい指導力”として保育者(集団)に宿っていくと期待しています。(そのための《支え合いの仕組み》です)

様々な素材や廃材(廃材利用は日本の伝統)を制作素材として、子どもたちを観察しながら創意を搾り出す“保育者の姿”によって“遊びが発展した姿”をこれまで何度も見ています。

子どもどうしが“ごっこ的”に活動する空間をゾーン、そこに導く事をゾーニングと捉えます。子どもの主体性を尊重し、しかし、子ども任せにしないで、保育者自身がアンテナを研ぎ澄まし、子どもの思いや願いをキャッチし、それに“響鳴”した「提案」もしていきたいと考えます。

どの園も「制作コーナー」の人気は高いです。保育者から決まった指示を受けない自由制作なので、おのずと意欲があふれます。けれども、素材や廃材の色や形や感触に触発されて、「ただモノを造って、持って帰るだけ」という姿も、導入当初、よく見られました。

「造ったものを何かに“見立て”て、ごっこ遊びを展開する」「ごっこ遊びを一層、深めるために“見立て”に必要なものを制作する」、これは、理想の展開例です。けれども、それが園文化、子どもの“遊び文化”として定着するまでには、それなりの経験と時間を要します。

「コーナー」で自由に遊んでいる日常に「保育者の願いや創意」が絡みついて、徐々に「ゾーン」に発展し盛り上がる。個々の活動がジワリと繋がって集団遊びを自然に形成していく。それが園文化として醸成する。このプロセスが、幼児教育の実相であると言い切ってもよいと思います。

それを支えるのが、「クラス別の保育」です。2歳児の時、あの手この手で「ハサミ」の使い方に慣れ親しみ、一定のスキルを獲得していなければ、「制作コーナー」で「ハサミ」を使いたいという意欲は沸かず、実際、スキルも発揮できないわけです。様々な“ごっこ遊び”もクラス活動の中で経験しておくと「ゾーン」において、子どもどうしの力で、大発展する可能性を感じます。

5月、ある園で数名の4歳児が「制作コーナー」で「こいのぼり」をつくりはじめ、みるみるうちに感染し、「吹き流し」から「まごい」「ひごい」まで1つになったユニークな「こいのぼり」をつくる子どもたちが増えました。けれども、すべての4歳児ではありませんでした。従来型の造形活動といえば、「5月=こいのぼり製作」と一斉型の定番製作でした。しかも、クラス全員がだいたい“同じような出来栄え”になることをgoodとする価値観が一般的でした。

わが子も保育園時代、クラスで同じモノを作っていました。出来栄えを見て、わが子が何を思い、何を伝えたいか、そこに関心が行かずに、他の友達と比べて、だいたい同じ出来栄えなら“安心”し、貧弱だったら、正直、“失望する”、そんな私自身がいました。横並びなら“安心”、秀でていたら“満足”という親心の構図です。けれども、製作は「表現」として、捉える活動です。

「先生が、イメージしたモノをクラスみんなが、だいたい同じ手法で、同じように作る」、これは「作業」です。ひと昔前ならいざ知らず、今後、《極彩色の超高度な情報社会》の中で生き抜く子どもたちにとって、教育効果は極めて乏しい! この考え方は、私たちの確信です。

6月、ある園で、0歳児から5歳児まで、すべてのクラスで“あじさい”をテーマに「表現」を試みます。そのクラス(学年)ならではの「物語」がどう創られるのか、わくわくどきどきです。

なぜなら、その経過と結果を7月にお知らせしようと密かに企んでいるからです。